今回ご登場いただくのはARBのギタリストとして一世を風靡したほか、ソロ・プロジェクト、ベーシスト、作詞作曲家、音楽プロデューサーとして幅広く活躍されている白浜久さん。 Cheer Up!の企画で度々コラムを寄稿いただいたご縁もあり、直接お会いしてのロング・インタビューが実現しました。 音楽業界で長く活躍されてきた白浜さんのお話は深みがあり示唆に富んでいます。現在力を入れている若い人を海外のコンペに出す取り組み、プロデューサーを務めた福山雅治さんのデビュー・アルバム『伝言』秘話、これまでの音楽人生に至るまでぜひ多くの方にお読み頂きたいインタビューになっています。(2024年12月) ---まずは最近の活動についてお伺いします。H.Shirahama Projectは、現在も続いているのですか? 白浜:メンバーの入れ替わりが激しくて、アルバムはほぼ一人でやっています。 コロナ前までは甲斐バンドの田中一郎さん、BOWWOWの斉藤光浩がアルバムをミックスしてくれたり参加してくれたり、曲によってはプロデュースもやってくれてLiveも出てくれたりしてたんですけど、コロナのちょっと前ぐらいかな?甲斐バンドがめちゃくちゃ忙しくなって彼らの身動きがとれなくなって。今はちょっと休憩してます。 その代わりに最近は「H.Shirahama Project+小山卓治」、僕のプロジェクトが小山をサポートするっていう形でやっています。 彼は結構バンドサウンドに憧れを持っていて。そして彼自身も「小山卓治 with Wonder 3」「小山卓治 with Wonder 4」「小山卓治 with Wonder 5」とバンドを持ってて。メンバーの人数によってバンド名が変わるんです(笑)。 そのバンドは彼が基本リーダーで、彼以外の曲はやらないっていうのが鉄則なんですよ。だから、彼が 自分もそのバンドの一員として、自分の曲以外の曲をやるっていうプロジェクトをやりたいって前々から言ってたんで「じゃあ僕の方のプロジェクトも休んでるから参加するよ」ということになりました。 ---他にはどんな活動をされていますか? 白浜:湯川トーベンさんと飲む機会があって、コーラス重視のクロスビー・スティルス・ナッシュ& ヤングみたいなことやってみない?っていう話が出たんです。 酔っ払ってると大体そのまま流れちゃうんですけど、僕はちょうど暇だったんでそれぞれの楽曲のベーシックデータを作って、彼ら(注:小山さん・湯川さん)に渡したんですよね。 コーラスと自分たちの楽器を差し替えるだけっていう、ほぼアレンジが決まっているものだったんですが、渡したら「おー!」って結構盛り上がっちゃって。 うちには大体の楽器が録れるスタジオがあるんで、遊びに来た時に自分たちの楽器を差し替えていく作業をやって。作業は少なかったですよ。2〜3回ぐらいで10曲できちゃって。 じゃあライブやろうか!ってことになって、今年の7月かな?やってみたら満杯で盛況で。 2025年は東京と名古屋公演が決まっています。 『TAKUJI,HISASHI&TOBEN』小山卓治,白浜久&湯川トーベン ---小山卓治さん、湯川トーベンさん、共にベテランで音楽界で知られた存在ですが、白浜さんから見てどのようなお人柄ですか? 白浜:小山くんはソロアーティストにしてはバランス感覚が取れてるというか。すごくジェントルですね。自分の我儘はあまり言わない。 とにかく知的な男です。休みの日は美術館に行ったり、音楽以外の本もよく読むしね。 ---白浜さんも本をたくさん読んでいらっしゃるイメージですね。 白浜:読むと言っても偏ってますけどね。大学時代は山のように読んだけど、最近はだいぶペースダウンしてます。その分音楽を聴いてこなかったんで、逆にいまクラシックやジャズばかり聴いています。 で、湯川トーベンさん。彼はさすが元々ベーシストなだけありますね。 子供ばんどに入る前から業界では結構売れっ子だったけど、子供ばんどを辞めた後も、ソロからセッションプレイヤーまで幅広くやってますね。 最近は鈴木茂さんのバンドのパーマネントなメンバーだし、佐野史郎さんともやっています。 それ以外でもレコーディングが色々入っていて忙しい人ですね。スケジュールもほとんど取れない。 ---3人でライブをできるのはレアなんでしょうね。 白浜:あと最近は、僕の先輩でもあるんですが、金尾よしろうさんという九州出身のシンガーソングライターを手伝ったりしています。 彼は、かわさきFMでパーソナリティをしてるんですが、そこに結構いろんなゲストが来るんです。カルメンマキさんとか、年に2回は必ず山本恭司さんが来たりして、コアな番組になっていて面白いですよ。 「金尾よしろうの音楽魂」 https://www.youtube.com/channel/UC_2S80ggecqmm194kifPxhA ---プロデューサーとしてのお仕事についてはいかがですか? 白浜:海外には音楽のいろんなコンペがあるんですが、いわゆる音楽を生業としてない人の曲をアレンジしてコンペに出すということをやってます。毎年何かしら賞を取ってるんですよ。 アメリカだと、Mid Atlantic Song Contestというのがあって、作曲コンテストでは一番古いのかな?上のほうの賞を取ると、いろんな仕事が舞い込んでくるんです。 自分ので賞を取った時に、ロシアのお騒がせユニットt.A.T.u.の楽曲依頼が来たこともあるんですけど、あまりに条件が悪いんで断りました。 ---t.A.T.u.、懐かしい。当時かなり話題になってましたね。 白浜:最近はアメリカよりイギリスでよく賞を取るんですけど、上の賞を取ると、向こうのプロで既に知られた人たちでも出たいという「ユーロビジョンコンテスト」に自動的にエントリーできるんです。 ゴールド、シルバーの下まではいくんですけどなかなかその上は取れなくて。 ---競争率の高い世界なんですね。 白浜:僕がモニターをやっているブルーリッジギターというギターがあって、そこの企画で僕の地元・博多で女の子の弾き語りのシンガーソングライターのコンテストが開催され、僕は審査側だったんです。 ブルーリッジギターとTOKYO FMの主催で始まったんですけど、コロナ禍になってTOKYO FMが協賛から外れちゃったんですよね…。 でも人を集めていたので、 西日本新聞さんなどから協力を得て開催したんですよ。 結構な人数が集まって、そこで英語がちゃんとしていて歌も上手い子たちをピックアップして、オーディションさせて一番良かった子をボーカルに据えてイギリスとかアメリカのコンテストにエントリーさせたらまあまあ上の賞を取りました。 それで、行政から補助金をもらってできないかなっていう話を進めているところです。 ---若いアーティストをプロデュースして外に出していくようなお仕事なんですね。 白浜:さすがに自分ではしんどくなってきたんで。元々仕事の大半は自分が出ていくほうではなくプロデュースだったんでね。 あと、今年はスイスのAIによるソングコンテストのようなものがあって、そこでセミファイナルまでいきました。 ---それは聴いてみたいですね。 白浜:今はこっちが面白いんで、メジャーな仕事はほとんどないですね。 これで海外から逆輸入できる形になったら面白いなと思っています。 今の若い子たちには、「日本のメジャーを相手にしても仕様がないから、向こうに行くならこういったところをきっかけに逆輸入になるよう頑張りなさいよ」とは言ってるんだけど。 今の若い子たちはいろんな面でなんか欠けてるなっていう感じはしますね。まず、本をそんなに読んでないし、 音楽もそんなに聴いてないし、ライバル意識もあんまりない。 そこら辺はもうちょっとライバル意識むき出しにして、相手を叩き潰すぐらいの気持ちでないと、この世界でやっていけるような感じじゃなくなってますね。 "後進を育てる"なんて偉そうなことを言う前に、まずそのぐらいの根性のある子が出てきたら、という感じですかね。 ---そういう才能ある人を見つけたい、出会いたいというお気持ちなのでしょうか。 白浜:僕は結構いい思いしてるんですよね。そのFM TOKYOが主催から降りた時に、福山雅治が自分の番組でコンテストの宣伝してくれたり、エントリーした子の曲を流してくれたりね。 だから僕の周りの若い子達もそういういい思いしてるんですよ。 ---福山さんのラジオ番組はよく聴いてますけど、何かと白浜さんのお名前が出てきて、やはりずっと尊敬してらっしゃるんだなと思いますね。 白浜:いや、もう僕のほうが尊敬してます。 ---この機会に白浜さんがプロデュースなさった福山雅治さんの1stアルバム『伝言』をじっくり聴き返してみたんです。バックコーラスも白浜さんが結構されてるのかな?と思いましたがいかがでしょう。 白浜:バックコーラスもやってますし、シンセも結構弾いてますよ。 当時はひどい状況だったんですよ。彼はポリープになっちゃって、レコーディングできない状態にも関わらず、発売日だけ決まってたっていう。そういった中で、結局リハーサルもできない状態で。 実際、オケを録り始めてる時に、彼はまだポリープ治ってなかったですからね。 もちろん歌入れの時にはとりあえず治っていたけれど、ボイストレーニングもそんなにできない状態で本番っていう。ボイストレーナーの先生が、ポリープ取ったらキーが少なくとも1音上がるからって話だったんですよ。じゃあ大丈夫だねって言ってたんです。上のキーがきつくなるのはしんどいからね。 そのまま録音したら、珍しく彼の場合はキーが下がっちゃって。だから相当きつい状態で録音したんですよ。ちょっと悪かったなと思ったけど、それでもね…頑張りましたね。 ---『伝言』では作詞で数曲、白浜さんと福山さんのお名前が並んでいますが、お二人で「こんなのどう?」って話し合いながら一緒に作り上げていったのでしょうか。 白浜:当時の彼の詞はまだまだ殴り書きというか、楽曲にはなっていなかったんですよ。 ただ、それを読んだ時にこの子は絶対才能があるなって勿論僕には分かったんです。それをほどいて、バラバラにして1つの作品に組み上げる方法を教えたところ、曲によっては半分ぐらい彼のとは違う言葉が入ってきたので…それで福山君が「共作にしましょう」って言ったんですよ。だから元は全部彼ですよ。 その時に彼がストーリーを書くことで、それを確認する作業を彼は「学んだ」と言ってるけど、別に教えたわけじゃない。ただ「ここは要らない。ここは起承転結でここに持っていくにはこういうのがいいんじゃないの?」って。 ---自ら学び取っていったということでしょうか。 白浜:僕がいてもいなくても、彼はね。ただ彼の場合、その当時のスタッフから作品を全く認められていなかった。彼の書いたその殴り書きの詞がいかに素晴らしいものか、多分最初に発見したのが僕。僕が彼にやってあげられたことがあったとしたら、それですね。 ほとんどの人間から理解されないようなもの、彼のもっともっと奥にあるようなものを1回吐き出す時期が、あんまり遅くない方がいいから、そろそろあるような気がしますけど。 多分日本では全く売れないと思うんですけど、そんな詩集みたいなものを彼が出す日が来るんじゃないのかなと思って、期待はしてるんですよ。 ランボー、ボードレール 同じところに名前は載らないにしても"21世紀のボードレール"に彼がなれたらいいなって。そういうようなものも彼は持ってるから。 彼は利口だから、今の状況でやっても独りよがりになるから無駄だって多分わかってるだろうけど。ヨーロッパの長い歴史の中ではそういったアーティストもちゃんと存在できるけど、日本じゃなかなかね。まあ、いなかったわけではないけど…。難しいところですよね。 別に人に見せなくても、自分の中だけで完結してしていいっていうのもあるんじゃないのかな。彼は全然アーティストぶってないし。彼の口から自分はアーティストだって言葉は聞いたことはない。自分は「音楽屋」だって。あんなに成功しながら人間が変わらない男も珍しいですね。 『伝言』福山雅治 ---そもそも白浜さんが音楽好きになったきっかけについて伺えますか? 白浜:僕が小学校4年の時にビートルズが来日したんですよ。 結構ショックでしたね、その年齢だからなかなかレコードも買えなかったけどね。 昔は、シングル以外にコンパクトLPっていう、シングルと同じ大きさで4曲入りのレコードがあったんです。それをお年玉で買いました。 アルバムを買うようになったのは中学生になってからかな。買いまくりましたね。楽器を弾くというよりは聴くほう専門で。ビートルズ、ローリングストーンズ。 ギターを弾くようになったのは高校に入ってからですね。 ---ギターは親御さんに買ってもらったんですか? 白浜:親父が国家公務員だったんで、いきなり福岡から新潟に転勤になっちゃって。 そこは県立高校に落ちたら工業高校とかしかないっていう場所で。県立高校に受かったらなんでも好きなもの買ってやるっていう話になって、しめしめと思いました(笑)。 受かる自信はあって、ヤマハのギターを買ってもらいましたね。 でも本格的に音楽をやるようになったのは、大学に入るのと同時でした。 その頃にはまた福岡に舞い戻ってきていて大学の合格通知をもらった直後に、現シーナ&ザ・ロケッツの川嶋一秀くんのハードロックバンドのオーディションに受かって。そこからですね。いわゆるグループでやるようになったのは。 福岡にある照和(しょうわ)っていうライブハウスに出てました。 チューリップとか海援隊を輩出した有名なライブハウスなんです。甲斐さんもそこから出てるし、井上陽水さんも出てました。ちょっと伝説のライブハウスですね。 そこに出るようになって3か月ぐらいで解散したのかな。 それからTHE MOZZ (注:THE MODSの前身バンド)で、また川嶋くんと一緒にやってました。 ---その時期からプロとしてやっていこうと思われたのでしょうか。 白浜:いや、ロックバンドでプロになっても食えないだろうとか、そういう話は色々聞いてたんで。 ---大学ご卒業後は法務教官として就職し、非行少年の教育を行われたそうですが、大学在学中から資格を取ったりしていたのでしょうか。 白浜:まず国家公務員の中級試験は通らないとだめなんですよ。西南学院大学の外国総合学科英語専攻だったんです。英語のスペシャリストっていうことで、大学でそういう資格みたいなものを有していると公務員の場合は上級乙種、要するに上級職扱いで。 英語の場合何がいいかっていうと、国内で犯罪起こした外国人に対する取り調べとか、そういったような仕事の道が開けるんですよ。そっちのほうに就職が決まりかけてたんですが、実は二年留年して全然勉強してなかったんで、英語をたいして喋れないことがバレて小田原少年院にいきなり飛ばされたんです。 そこが中等少年院っていうものすごい悪い連中ばっか集まるところの矯正教育の方に回されて。2年が限界でしたね。 ---どんな風にきつかったのでしょうか。 白浜:とにかく再犯率が高いんですよ。何がきつかったって、それですね。 とりあえずその中にいる時だけは犯罪をできないだけで。 いわゆる「犯罪白書」だと8割が更生してるってことになってるんですけど逆ですね。 例えば3か月以内の再犯率は8割かもしんないけど、1年〜2年になると8割は再犯してます。それがちょっとしんどくて、もうダメだと思いました。 ---小田原少年院勤務の2年は、音楽についてはいかがでしたか。 白浜:シーナ&ザ・ロケッツの川嶋くん、浅田(孟)くんが暇な時に僕の小田原のアパートに遊びに来てたんですよ。 ロックバンドってこんなに売れても給料少ないんだってショックでしたね。バンドバブルになる前だから、本当大変だったみたいですよ。それなら普通に勤め人の方がね…。 で、法務教官を辞めても、大学は出てたんでなんとかなるだろうって思ってました。2年間貯金しまくって、何もしなくても1年以上はもつなという計算だったんで、そのうち何か仕事に就けるだろうという感じで東京に出て。そこで一年間、デモテープを作ってたんですよ。 東京のアパ―トには、もうプロになってる仲間たちが遊びに来て、デモテープを聴いて「面白いじゃん」とか言ってるのが、どうも業界に出回ったらしく。それがデビューのきっかけになったんです。 ---1985年のソロデビュー作『NONFICTION』ですね。 白浜:その頃は僕ももうお金がなかったので進学塾の先生をやってて、(アルバムの方は)全部お任せしたんです。いろんな方が参加して下さったけけど、僕がほとんど参加してないからちょっと気に入らなくて。僕の作ったデモの良さは完全に削除されてて「これは違うでしょ?」と思ったけど、時すでに遅しで…契約もあったから。 そんな時期に、九州で同じライブハウスに出ていた石橋凌君と再会したんです。「ARBに入らないか?」と言われて。ちょうど斉藤光浩(gt)が辞めることが決まってて、運命的なものを感じたんでしょうね。僕も、自分が歌うとか真ん中に立つ人間じゃないと分かってたから。 18歳ぐらいの時の彼は素晴らしかった。曲も良かったし。パンクをやる前ですね。 俺が入ったら、パンクから離れた石橋凌の魅力を出せたらいいなと思って「じゃあ、やる」って答えました。 ギタリスト兼プロデューサーというか、ギター弾いてるよりもキーボード弾いてるほうが多かった気がします。楽しかったですよ。色々実験的なこともできたし、レコード売上もどんどん上がって。 ただ、パンクからどんどん離れていくことに対してやっぱり昔のファンの抵抗はすごくあったし、新たなファンを獲得していったし、他のメンバーもいろいろ苦しんだんじゃないですかね。 ただ、パンクって一年間やったらもう充分じゃないの?、若者っていうのは常に怒ってるもんだし、大人になってやるもんじゃないだろうみたいなのがあったから。 ---バンドのことを一歩引いた目で見ていらしたのでしょうか。 白浜:だって20代も後半なわけだから、怒れる若者もないだろうし。もっと冷静に世の中を見る視点というのも必要になってくるし。パンクは18,19で思いっきりやって卒業。生き残ったら別のことやんなさいよ、と思ってました。 ファンの反発もいろいろあったけど、結果的にアルバムセールスは伸びたわけだし、やってよかったなというのはあるし、他のメンバーもよくやってくれたと思います。 ---いろいろあり、ARBは1990年に解散したんですね。 白浜:解散後はプロデュースを自由にできるようになり、そこから先のほうが面白かったですね。いろんなアーティストをプロデュースできたし楽しかったですね。 ---2000年代は様々なコラボレーションもされていらっしゃいますが、白浜さんはアボリジニの楽器「ディジュリドゥ」にも造詣が深いそうですね。 白浜:オーストラリアに一時期ハマっていて、ある企画でディジュリドゥとコラボレーションしたいなと思ったんです。 ディジュリドゥは太古の楽器、最古の楽器と言われているんですが、近代的な楽器でどこまで対峙できるのか?やってみようじゃないか、って。 シドニーオリンピックなんかっでも吹いたチャーリー・マクマーンっていう結構有名な人がいて、なんとか話をつけてその人に参加してもらって、自分でも楽器を買ってきて。 RED WARRIORS/レベッカのshakeさん(木暮武彦)のサイコデリシャスっていうソロプロジェクトがあって、そこに参加していたことがあるんです。その時、ディジュリドゥとギターとベースでアルバム2枚ぐらい作ったかな。 ---サイコデリシャス気になりますね。聴いてみます。 2008年にはH.Shirahama Project を再始動なさったそうですね。 白浜:その頃は「和豪」という、ディジュリドゥと三味線、尺八、アフリカンパーカッション、エレクトリックギター、シンセというバンドを作ってオーストラリアツアーに行ったりしていた時期ですね。 オーストラリア政府観光局からの依頼があって即席でメンバーを集めたんです。 オーストラリアの政府観光局の職員と、その時の観光大臣が日本に来て、彼らと一緒に東京、大阪、福岡なんかでライブやって。その流れでオーストラリアでライブをやったんですよね。 その後、東日本大震災の頃かな、福岡で一人暮らししていた母が倒れちゃって、東京の仕事はいったんキャンセルして、そこからしばらくは、お袋の介護で帰省していました。 そのまま引退しても良かったんですけどね。 ---そんな。それは寂しいですよ…。 白浜:でもタイミングがいいのか悪いのか、僕がARBに書いた曲がアニメ「輪るピングドラム」の挿入曲やエンディングテーマになっちゃって。 それがあって、これは別に音楽活動しなくても印税入ってくるから、介護に専念できるなと思って。そのうち年金もらえる年になるからいいか!なんて、割と不真面目というか人生なめきってるんですけどね(苦笑)。 ---白浜さんには折にふれCheer Up!の企画にご登場いただき、その都度さまざまな音楽をご紹介いただきました。最近の音楽観について伺えたらと思うのですが、いかがですか。 白浜:音楽を聴くようになってから少なくとも50年以上経ち、 僕だけじゃないと思うんだけど、一番熱心に聴いたのは多分ティーンエイジャーの頃だと思うんですよ。その時の音楽の身に付き方ってやっぱり凄くて。 大人になって聴いたら、「ここ間違えてるじゃん」とか「絶対俺の方が上手い」とかもちろんあるんですけど、そういうことじゃない。 人を感動させられる。その間違いも含めて一つのアートになっている。一つのスタンダードとして自分の中に入ってるから、もうそれは絶対否定できないんです。 例えば僕が当時夢中だったグランド・ファンク、シカゴ、フリー、彼らは当時20代だったわけですよね。 その20代の音楽を自分が還暦過ぎて聴いた時、やっぱり完璧なんですよね。 体に染みつく深さっていうのは、ちょっとやそっとじゃ変えられない。人生残りどんなに長くても、それを否定することは絶対できない。だからそれはもう完全無欠なものなんですよ。どこにも間違いがないっていうか。 ---すごく分かります。大好きで、聴きこみ具合が半端じゃない音楽については、本当にそうですね。 白浜:例えばキャロル・キングの『Tapestry』の中の「It's too late」って曲で、ダニー・クーチが途中明らかに間違えてるんです。 彼は譜面を見てマイナーのAメロに入るつもりで弾いてるんですけど、そこを間違えていきなりサビに行ってるという、だから完璧に音がずれてるんですけど、それも含めて自分にとってのスタンダードなんで。それをコピーするとしたら、自分はその間違いもコピーしなきゃいけないっていうぐらいにスタンダードなんです。 どれだけ熱心に聴いたか、それがどれだけ多くあるかで、その人のアーティスト人生が決まるんじゃないのかな。そこが自分にとって帰るべき場所になりますよね。 今の若い子に欠けてるとしたら、そこじゃないかな。 自分にとってのスタンダード、戻るべきところっていう部分がどれだけ豊かであるか。あの頃のほうがレコードも高いし、今みたいに簡単に音源が手に入るような時代じゃなかった。 今、20代の子たちの面倒を見てて、話していると全然音楽を聴いてないなと思うんです。 ---そうなんですね。でもそういう若い人たちが曲を作ってきて、これを出したいと言ってくるんですよね。 白浜:もちろんいいものもありますよ。時代を変えるような才能のある子もいるとは思うんですけど…一言で言えば、才能だけでやっていける世界ではない。全然努力が足りないんです。その引き出しに仮に僕がいろんなものを入れてあげても、次は出てこない。 例えば1stアルバムはできると思うんです。22年間の蓄積があるから、その22年間を出せばいいけど、その次はもうないわけですよね。22,23歳の段階で10枚ぐらい出せる蓄積がないと。 10代でどれだけ詰め込んだかっていうのがそこでわかっちゃう。だから僕もあまり手を出せないというか。 よくあるのが「第二の福山雅治を出しましょう」っていう話。断っても断っても来ます。全部断ってます。失敗するに決まってるし。 実際会ったこともあるし、デモを聴いたこともあるんですけど、絶対無理だってわかるから。その人にとっても失礼だし、それをやったら自分も終わると分かってるから。 あいみょん聴いただけで曲を書いてきたとか、そんなんでここから先40年間食っていこうと思ってるのはちょっと無理ですよ(苦笑)。 ---白浜さんは、最近のヒットチャートに入ってるような曲も聴かれるんですか? 白浜:全然知らないんですよ。ようやく2〜3年前にあいみょんを知ったんです。彼女はもちろん才能あると思います。他は知らない。 彼らは10代に対するメッセージが強くあるんだろうし、僕は10代じゃないから刺さらない。 20代は同世代かその下に向けてメッセージを向ければいいし、 じゃあ僕らはどこにメッセージを向けるかと言ったら、やっぱり同世代を生きてきて、なんとか生き残ったあの人たちに対してメッセージを向ければいい。若い子たちに受けようなんていうことがもう土台大間違いっていうか、10代の気持ちが分かるわけない。分かろうとも思わない。 日本のアーティストって、なんか年を取ることが許されない雰囲気がありますよね。 海外のアーティストは、THE WHOにしても、エリック・クラプトンにしてもYESにしても、いい年の取り方ができている。けれど日本ではなかなかね。髪の毛が減っただけであーだこーだ言われるし、太っただけでも言われるし。でも人間ってそういうものだからね。 無理して時を止めようとしなきゃならなくて、もがいてる。努力は認めるけど、日本じゃなかったらもっと楽なのになあと思うことはありますね。 ---インタビューの最後に、今後の展望や軸足を置きたい活動などについて教えて頂けますか。 白浜:いつ自分の最後の作品になるか分からないけど、それは、これでもう自分の人生終わるんだよというアルバムではない。終活以外のテーマを考えているところです。 我々の世代、昭和30年代生まれって、いわゆる親のセーフティネットが多分最強だった世代なんですよ。一番甘やかされてるし、一番いい思いしてる。自分はそうじゃなかったですけど、親のコネで就職したりとか。 石破とか岸田とか野田とかみんな同級生なんですよ。俺らがダメにしたその反省と、その俺らがいい大人になって声を上げなければいけないのが問題というか。 そういった作品としてまとめたいですね。 日本って、まだ女性が虐げられているところもあるし、国会なんかモロ男社会で。例えば主婦がやるパンクロックとか、社会に一石投じることができるんじゃないのかな。 僕がプロデューサーとして関われるところっていうのは沢山あるんで、粉は色々かけてるんですけど、なかなか。 偉そうに啓蒙するとかそういうんじゃなくて、きっかけなりテーマなりを与えるのが、これからの自分の仕事だな。今までやってきた何か一つでも残せたらなと思っています。 ---今後の活動も楽しみに応援しております。本日は長いお時間貴重なお話をありがとうございました。 ◆白浜久 プロフィール 1981年 西南学院大文学部外国語学科卒。 1981〜1983年 法務教官として小田原少年院に勤務。 1985年 ビクターレコードよりメジャーデビュー。ほぼ同時期に斎藤光浩(BOW WOW)の抜けたARBにギタリストとして参加。 90年までに、ARBで4枚のアルバムと、3枚のソロアルバム発表。 90年 東芝EMIへ移籍、4th「90's Paradox」発表。 2000年 VIVIDより5th「color of my life」発表。 プロデュースしたアーティストは福山雅治、山本太郎、ユニコーン他。 楽曲提供は時任三郎、真田広之、山瀬まみ、大西結花、福山雅治他。 また非行問題の講演等活動は多岐に渡る。 '75 Razamanaz '75~'76 Mozz '77~'78 Mods '78~'80 Zigy '85 ビクターとソロ契約 '86~'90 ARB '90 東芝とソロ契約 '92~'2000 プロデュース活動 '00 Vivid Soundとソロ契約 H.Shirahama project始動 '01~'04 Psychodelicious 第一期H.Shirahama project(田中一郎、浅田孟、西川貴博)'00~ 第二期H.Shirahama project(田中一郎、松本慎二、西川貴博) '03~ 三色丼プロジェクト(田中一郎、斉藤光浩、松本慎二、西川貴博、大島香) '04 一久(田中一郎、白浜久、James市川、松本慎二、西川貴博、丹菊正和) 第三期H.Shirahama project(斉藤光浩、松本慎二、Samu、丹菊正和) '08~ 第四期H.Shirahama project(斉藤光浩、榎本高、西川貴博) '11~ AWARDS 「Swan Song」がAI Song Contest 2024 (Switzerland)にてSemi Finalist受賞 UK Song Contest 2024(イギリス)にて 5 Stars 獲得 作詞曲:落合利也、プロデュース:白浜久&上西泰史 World Songwriting Awards 2021 プロデュース部門にてトップ10に選出 「After all these years」がWorls Songwriting Awards 2022 ポップス部門にて5つ星 作詞作曲:落合利也、ボーカル:元山朋美、プロデュース:白浜久 「Picture of her smile」がWorls Songwriting Awards 2021 ポップス部門にて3つ星 Mid Atlantic Song Contest (USA)にてHonorable Mentionを獲得 作詞作曲:落合利也、ボーカル:元山朋美、プロデュース:白浜久 2011 The 28th Mid-Atlantic Song Contest "Himawari~pray for Fukushima"--Gold winner, Instrumental Category "Sakura"--Honorable Mention, Instrumental Category "Unknown Soldier"--Honorable Mention, Rock/Alternative Category 2010 The 27th Mid-Atlantic Song Contest "Cold Flame"--Finalist, Rock/Alternative Category 2009 The 26th Mid-Atlantic Song Contest "Golden Years"--Honorable Mention, Ethnic Category "Wonderfull World"--Honorable Mention, Rock/Alternative Category "Human Flight"--Honorable Mention, Rock/Alternative Category 2022 UK Song Contest 2022 "After all these years"-- 5 stars / written by Toshiya Ochiai, produced by H. Shirahama 2023 UK Song Contest 2023 "Forever and more"-- 4 stars / written by Toshiya Ochiai, produced by H. Shirahama 2024 AI Song Contest 2024 "Swan Song"--Semi-Finalist / written by Toshiya Ochiai, produced by Hisa&Yasu 白浜久 Official Web https://pandars.net/ 白浜久 Official blog http://blog.pandars.net/ YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/user/coldflame2010 ♪最新Live情報 詳細や予約については、下記公式サイトにてご確認下さい。 https://pandars.net/news.html ◆2025/1/18(土)東京 新宿御苑 Ruto 「TAKUJI, HISASHI & TOBEN U」 出演:小山卓治、白浜久、湯川トーベン ◆2025/1/25(土)神奈川 南林間ハイダウェイ 「金尾よしろう」 出演:金尾よしろう、松下年見、明井幸次郎、白浜久 ◆2025/2/1(土)愛知 名古屋 Brushup 「TAKUJI, HISASHI & TOBEN V」 出演:小山卓治、白浜久、湯川トーベン ◆2025/2/8(土)東京 杉並 Harness 「白浜久×クロス Live at HARNESS」 ◆2025/2/22(土)東京 杉並 Harness 「小山卓治×白浜久 Live at HARNESS」 <Cheer Up!関連リンク> 特集:Cheer Up! SUMMER MUSIC 2024 コラム寄稿(2024年) http://www.cheerup777.com/2024summer.html#section8 特集:Cheer Up!Christmas コラム寄稿(2019年) http://www.cheerup777.com/xmas2019/xmas2019-1.html 特集:あなたにとってのCheer Up!なMUSIC教えて下さい(2014年) http://www.cheerup777.com/cheer/shirahama.html |