これまでに一体何回の舞台に立たれたのだろうか。
ヴァイオリニストの太田惠資さんのお名前は、様々なライヴやアルバムで見かけたことがあると思う。
常にお忙しく活動されている印象の太田さんには伺ってみたいことがありすぎて、お忙しい中取って頂いた時間の中で、目一杯質問に答えて頂いた。
とはいえ、せわしなく話しまくるようなインタビューではなく、コーヒーの香りに包まれながら穏やかでゆったりとした時間が流れ、いつの間にか自分のことも話していたりして、それは太田さんのお人柄によるものなんだなと後で気付かされた。
音楽を始めたきっかけから、民族音楽のお話、舞台でのエピソードなど、ぜひゆったりとお読みいただきたい。(2025年2月)

---太田さんはこれまでに沢山のユニット/バンドに入られていた印象がありますが、現在はいかがですか。

太田:Yolcu-Yoldaş(ヨルジュ・ヨルダシュ)は自分がリーダーになります。ライブは年に数回しかやらないですが、これが唯一のリーダーバンドになりますね。
MASAЯA(マサラ)は結成35年になります。リーダーは決まっていないんですけど、事務的には一応ギターの高木潤一さんがリーダーということになっています。


『LIVE』Yolcu-Yoldaş
ヴァイオリン:太田惠資
ギター:今堀恒雄
パーカッション:岡部洋一


『Kashino Khan』MASAЯA
アコースティック・ギター:高木潤一
ヴァイオリン:太田惠資
タブラ:吉見征樹

---今回は太田さんの音楽人生についてじっくりお伺いしたいと思います。
5歳からヴァイオリンを始めたそうですが、そのきっかけについて伺えますか。


太田:うちは熊本のとんこつラーメン屋でした。父親一代でしたけど、戦後のどさくさで始めた店で、熊本自体にもやっとたどり着いたようでしたね。
親は音楽は好きでしたけど、音楽とは全く関係ない家でした。

確か幼稚園に入る前だったと思うんですけど、田舎の公民館のような場所で、ちょっと年上の小学生ぐらいのお兄さん・お姉さんたちのヴァイオリン演奏を聴いたんです。
すごく簡単な曲だったと思うんですけど、大勢で演奏していて。それを見て「あれを習いたい」と言ったようです。

---楽器はすぐに買ってもらえたのですか?

太田:そうですね。教育には熱心だったんですけど、戦後10年ぐらいしか経ってないですし、裕福ではなかったので「職業にしないまでも、一生続けるなら」という感じでした。

地元の先生にお稽古事として習いに行きました。
良かったのは、僕が習っていた先生の息子さんが、当時東京の音大から帰ってこられたばっかりで、地元で青少年のオーケストラを作ろうということになったんです。
熊本ジュニアオーケストラという名前で、今は熊本ユースシンフォニーオーケストラになっていますね。
息子さんもヴァイオリンを弾かれる方で、私もオーケストラにも通うようになりヴァイオリンを弾いていました。

---太田さんはクラシックから始められたんですね。

太田:習い事ですけどね。私には年齢の離れた兄と姉がいるんですけど、兄が当時ベンチャーズやビートルズが好きでバンドをやってて、家にレコードも沢山ありました。
姉の影響でポピュラーミュージックに入っていって、そっちではベースをやるようになりました。オーケストラでもコントラバスを弾いてて、大学を出るまでベースとヴァイオリンどちらもやってました。

---学生時代から幅広い活動をされていたんですね。

太田:中学校ぐらいからバンドをやっていましたね。ビートルズとか、ちょっと後に出てきたのだとレッドツェッペリンとかね。ベース弾きながら歌ったりしてました。

---今でもベースは弾かれるのですか?

太田:自分のレコーディングでは弾きますね。全部繋がってるんです。ベースも4弦しかないし、ヴァイオリンとチューニングが逆になっているだけで。
オーケストラでコントラバスを弾くのも、ヴァイオリンを弾くのも気持ちは同じでしたね。

---太田さんは大学がまた意外で、鹿児島大学で化学を専攻なさったんですよね。
化学には昔から興味がおありだったのでしょうか?


太田:母が戦時中までは日赤の看護婦だったんです。だから、ちゃんと教育をという親の夢というかね…医学部を目指してたんですけど、僕の頃は国立を2回受けられた時期で、1期は医学部を受けて落ちて、2期は熊本大の医学部と鹿児島大を受けたんです。
宮沢賢治が好きだったので、自然科学とか生命科学というものも好きでした。生命科学だったらお医者さんと近いかな?と思ったんですよね。

---大学時代、音楽活動のほうはいかがでしたか?

太田:大学ではサークル活動でオーケストラに入って、同時にジャズバンドやロックバンドもやっていました。夜は僕らの時代だとディスコやキャバレーがあって、いわゆるハコバン(注:お店の専属バンド)で演奏していました。

---ハコバンではどんな曲を弾いていたのでしょう。

太田:流行りの洋楽やジャズですね。あの頃はお店がたくさんあったんですよ。キャバレーの時代の最後ぐらいかな。
同じビルの中に、下がパブで上がキャバレーで、2階にディスコが入ってるみたいなことがあったんです。東京のほうはもっと早くそういうのは終わっていたと思うんですけど、鹿児島あたりにはまだありましたね。

---上京するきっかけについて伺えますか?

太田:プロになるつもりは全然なくて、大学も結局ダラダラ留年して8年間いたんですよ。タイムリミットまで卒論も出さずに。やっぱり化学だから実験をしなくてはいけなくてね。
で、いよいよ何か決めないといけないという時に、やっぱり自分が小さい頃から一番やってきたのはヴァイオリンだなと思って、音楽の道に進もうかなと。
熊本の実家のラーメン屋のすぐ近くに、熊本放送という熊本で一番大きい放送局があったんですよ。そこにラジオ局もあるんですけど、小さい時からラーメンの出前を持っていくうちに親孝行だと思われたようで、「音楽やってるんだって?」みたいな話になって、ディレクターに可愛がられてたんです。
で、東京からミュージシャンが一人でいらした時には、誰か地元でいない?ってことで僕がサポートしたり。
そういうわけで、東京に行こうと思った時にはツテがいくつかあったんです。

---そういうことだったんですね。ちなみにサポートしたミュージシャンの方で印象に残っているのはどなたですか?

太田:小室等さんと「六文銭」というユニットがあったんですけど、「六文銭」のメンバー及川恒平さんです。上京するときは及川さんに直接頼りました。
及川さんは、僕が上京する頃は作詞家として歌謡曲の方面で活躍していて、業界にも詳しかったんです。
及川さんから音楽事務所を紹介されたんですけど、自分がやりたい音楽、ヴァイオリンのソロ演奏は当時はあまりニーズがなかったんです。ストリングス・セクションは昔からありますが、「ヴァイオリンのソロって何?」みたいな感じでした。
まあ「神田川」のヴァイオリンとか、例はありますけどね。あまり仕事がなくて。
僕にはやることは沢山見えてたんですけど、日本の音楽業界自体にあまりニーズがない状況でした。

---現在大活躍されている太田さんにも、そういう時代があったのですね。

太田:オーケストラ時代の友達が大学時代から東京に出てきて作曲家をやっていたんです。彼がすごく忙しい人だったので、彼が出来ない仕事を譲ってもらって作曲していました。
今でこそ普通になりましたけど、高い録音機材を買って自分で全部演奏して録音したものを納めるという仕事が一番多かったですね。ちょうど80年代後半ぐらいの話です。
最初の数年はファミレスでバイトもしていましたね。
TV音楽の作曲は随分やっていましたよ。ドラマじゃなくて、ドキュメンタリーや特別番組などですね。

---プロフィールにはCM、映画、演劇、ファッションショー、プラネタリウムの作曲のことが書いてありますが、その時期のことですか?

太田:そうです。作曲家時代ですね。プラネタリウム用のオリジナル音楽を作ったりもしましたね。
その頃、録音技術はアナログからデジタルになってきたので、コンピュータの導入も早かったです。まだMacが英語バージョンしかなかったんです。

---太田さんはパフォーマンス・アーティストとして舞台に立つこともあるそうですが、そのあたりのきっかけについて教えて頂けますか?

太田::最初は、文化庁の研修でアメリカから帰ってきたばかりのコンテンポラリー・ダンサー黒沢美香。彼女は残念ながら亡くなりましたが、本当に衝撃的な踊りでした。
あの頃、六本木WAVEや西武などお洒落なイベントがいっぱいあったんですけれど、そういうところでも注目されていた人でした。今の若いダンサーのコンテンポラリーのルーツのような人です。

その黒沢さんが、アメリカから帰ってきて日本人音楽家と共演したいということで。
ちょうどその頃、ローリー・アンダーソンというアメリカの前衛芸術家がいたんですが、バイオリンの弓に録音できる磁気テープみたいなのをつけて、弾くほうにテープレコーダーのヘッドをつけてこするような…今でいうサンプリングの走りですね。
前衛的だけどポップアートが入ってるのですごくお洒落なんです。黒沢さんは、ニューヨークにいる時にそういう人たちをいっぱい見てきて、なんか日本にも面白い人いないかなって探していたところにご縁がありました。

二人で一つの作品を、とにかくどっちかが出来なくなるまでやりましょうということで、とりあえず100回公演目指して渋谷ジァン・ジァンでずっと定期公演をやっていました。

一つの作品がどんどん成長していくようなことをやってみて、元々何かしたいという気持ちは性質としてあったと思うんですけど、舞台で即興で絡んだり、舞台作品を作るということはすごく自分には合っていたんですね。
興味はあったけれど、具体的にやり始めたのは、その黒沢美香さんのおかげです。
その後、公演を見たいろいろな人たちが別の舞台に誘ってくれました。

---そういう経緯がおありだったのですね。その後、「GHETTO」(栗山民也・演出)という舞台作品にも出られたんですよね。

太田:ユダヤ人のヴァイオリン弾きの役でした。舞台慣れしていて、一種の民族音楽なので、そういう匂いが出せる人がいいということでした。あとは、即興演奏が出来て民族音楽的な要素がある人ということで探していたんですね。
プロフィールにはまだ載せていませんが、2023年には「バンズ・ヴィジット 迷子の警察音楽隊」というミュージカルに出演しました。

---どのような役だったのですか?

太田:エジプト人のヴァイオリン弾きの役です。
全部で二週間ぐらいの公演、大阪と愛知でやりました。本当にアラブ音楽みたいなのをやって面白かったですね。

---音楽だけじゃなく、演劇・ダンス…いろいろと繋がっていくんですね。

太田:そうなんですよね。一つのことじゃ語れない感じですよね。作曲をやっていたから黒沢美香さんの作品で演奏だけじゃなくて舞台の音楽全体を担当ということでも関われたし、切り離せないかもしれませんね。

---太田さんといえば、民俗音楽にも造詣の深いアーティストというイメージですが、民族音楽との出会いについて教えて頂けますか?

太田:最初はクラシックを習いましたが、その後ジャズやロックをやり、クラシック以外のヴァイオリンを使った音楽を追求していく中で民族音楽に出会ったんです。
アラブ音楽とか、インド音楽とか、アイリッシュとか、ジプシーの音楽とか、先ほどの舞台「GHETTO」でのユダヤ人のクレズマーっていう音楽とか。
民族音楽の流れから仙波清彦さんに出会い、いろいろ一緒に演るようになって。
大御所の方は3daysとか5daysのライブをよくやるんですけど、仙波さんは六本木ピットインで確か7daysをされたんですよ。
その時にメンバーに梅津和時さんがいらして、速攻で気に入って下さって、そこから30年間ぐらいのお付き合い。長いですよね。

---梅津和時さんもまた様々なバンド/ユニットを展開されていらっしゃいますが、太田さんはどちらのユニットにいらしたんですか?

太田:新大久保ジェントルメンです。

---太田さんは忌野清志郎さんの全国ツアーをサポートされたこともおありですが、梅津さんのご紹介だったのでしょうか。

太田:それは関係なかったです。清志郎さんが竹中直人さんの映画監督作品「119」で音楽を担当されて、そこで僕がヴァイオリンを弾いているんです。
清志郎さんとの出会いは、生活向上委員会などにも参加されているベーシストの早川岳晴さんの紹介でした。早川岳晴さんに出会ったのは、谷川賢作さんのバンドだったかと思いますね。

---本当に、次々繋がっていくことに驚かされます。

太田:はい。もう結局人生は人とのご縁ですよね。

---太田さんは、メンバーとしてのアルバム、ゲストで参加されたアルバム両方、きりがないほど沢山ありそうですね。

太田:参加してるアルバムは500〜600枚はあると思いますね。

---話は戻りますが、民族音楽に深く関心を持つようになった経緯についてはいかがですか。

太田:クラシックの、典型的な日本におけるヴァイオリンってこうだよね、っていう音色や弾き方に僕は先天的に馴染まなかったというか、出せなかったんです。それでコンプレックスもあったんですけど、「いやヴァイオリンって世界中で使われてるんじゃないか!」と思って。
自分でヴァイオリンが入っている音楽をあちこち探しているうち、世界ではクラシックじゃないほうが多いと思って。

---世界のヴァイオリンでは、一般的なものと形が違うものもあるのでしょうか。

太田:「ヴァイオリンみたいな楽器」というのもありますけど、ほとんどはヴァイオリンです。インドやアラブのヴァイオリンは古典をやる場合にはそれに合ったチューニングをすることもありますね。
最近の若い人たちはパリのコンセルヴァトワールを出たりしているので、レギュラーなチューニングのまま弾いている人たちもいて、もう垣根はなくなっているんですけどね。ヴァイオリン自体がアラブ音楽なんかでも花形だったりね。

---いろいろな民族音楽を聴いてみたくなります。

太田:面白いでしょ。プログレロックだと、変拍子がどうのこうのって言いますけど、アラブとかインドは変拍子は当たり前なので全然普通のことです。アラブの人たちは変拍子で踊りますしね。

---太田さんはそういったご興味ある音楽の本場に行って来られたんですか?

太田:はい。現地で習ってきたり、日本でもその本場の楽器をやっている人たちと一緒に組んでいますね。

---本場の楽器をやっている方々は日本に結構いらっしゃるんですか?

太田:沢山いますよ。その当時は「走り」の人たちですね。僕はArabindia(アラビンディア)というバンドをやっているんですけど、Oud(ウード)の常味裕司さんは日本の第一人者です。

---ウード、知りませんでした。弦楽器なんですね。

太田:「アラブ音楽の女王」と呼ばれる楽器です。
Arabindia(アラビンディア)では、吉見征樹さんがタブラをやっています。
みんなで一緒に成長した感じですね。始めた頃はアラブ音楽も知られてなかったんですけど、今ではもう常味さんも吉見さんも第一人者で、後輩がいっぱい育って、その後輩が優秀になって。
吉見さんはインドでタブラを習っているし、常味さんはチュニジアでウードを習ってきています。本格的に古典をやってる人たちと一緒にやっているから、なんちゃってアラブ音楽や、なんちゃってインド音楽ではなくて、アラブ音楽の古典をやるバンドです。

---太田さんもたくさんの国に行かれたんですか?

太田:そうですね。仕事の旅もあれば、ヴァイオリンを見つける旅のようなものもあります。

---どの国が一番印象的ですか?

太田:どの国も本当に良かったんだけど、自分のDNAみたいなものをあわせると、トルコが一番好きですね。

---トルコの音楽というと、単純ではありますが真っ先にドラマ「阿修羅のごとく」で使われたトルコ軍楽隊のマーチを思い出します。

太田:あの曲は軍楽というジャンルですけど、トルコの音楽はアラブ音楽と同じような、古いペルシャ音楽に影響された古典音楽があって、アラブ音楽とトルコ音楽の垣根がないような部分もあります。
それから、トルコのコンテンポラリー音楽もすごく面白いんですよ。
ただ、トルコはアラブと違ってアジアの匂いもするんですよね。アジアンサイドとヨーロピアンサイドの両方があるので、本当に自分のDNAのルーツみたいな感じがすごくしますね。
中央アジアの匂いも残っているし、ヨーロッパやアラブ音楽の匂い、ペルシャ音楽の匂いも残っているし面白いですよ。料理も美味しいですしね。

---トルコ料理にはどんなものがあるんですか?

太田:有名なのはケバブですが、何を食べても美味しいです。あまり知られていませんが、パンも美味しいですし、ヨーグルトを使った料理も美味しいですね。
トルコで面白いのは、お隣にギリシャやイタリアがあるので、いわゆるエスニックな感じだけじゃなくて、ちょっと南ヨーロッパ、地中海の感じもあるんです。オリーブオイルとかオレンジとか。
三大料理という中にトルコは出てきませんけど、僕は三大料理に入れるべきだと思ってます。

---トルコ料理、とても気になりますね。
太田さんは、いろいろなミュージシャンと演奏を重ねていらして、エピソードもたくさんおありだと思いますが、印象的なエピソード、印象に残るミュージシャンのお話を伺えたら嬉しいです。
例えばライブスケジュールを拝見しただけでも日替わりで様々なミュージシャンと共演なさっていて、当WEBマガジンにご縁の深い方もたくさんいらっしゃいますね。例えばトランペットの類家心平さんとか。


太田:類家さんは大好きですよ。まだこんなに有名になる前にデュオをやったり、板橋文夫さんのところで演奏したり。セッションが多いので、一度ガッツリ、デュオでやりたいなと思っています。

僕が一番言いたいことの一つかもしれないんですけど、音楽って、テクニックがあることでもないし、いろんなことができることでもなくて、その人が発してる音楽のその向こう側にあるご本人の心だったり、人生だったり、生き様とか、人柄が出てるものでないと、実は音楽と言えないんじゃないかって常々思っているんです。
類家さんにはそれがあるんですね。上手いですし、かっこいい。ルックスとかもすごくいいんだけど、 彼のいいなと思うのは、その音楽の向こう側にある彼の人生だったり人柄ですね。うん。人物が好きなんですね。
それに見合った音を出しているところ、音とその人物が一致してるところが素晴らしいなと思います。
納得できる人格があるっていうか、音楽をちゃんとなさってる。そこがすごく好きですね。

類家さんはもっとこれから出てくると思います。すぐ万人に受けるっていうのではないけど、彼は出てくると思うし、出てこなくちゃ日本の音楽シーンは良くないなと思います。

---私も長年何度もこのWEBマガジンを通しての交流で、太田さんの仰ることに深く頷きたくなります。
他に共演してきたミュージシャンで印象的なエピソードはいかがですか?


太田:皆さんにお世話になっていて、それぞれに思い出があるんですけど、今ぱっと浮かぶ中で面白いのは山下洋輔さん。私が民族音楽の中でもトルコかぶれなのをご存知でした。
さっきお話した仙波清彦さんの7daysのときに、みんなが曲を持ち寄ることになったんです。そこで、「太田のトルコ」っていうオリジナル曲を持っていったんですけど、その曲はみんな気に入って下さるんですよ。
クルド系のポップスをパクったような曲で、"太田語"みたいなので歌ってるんです。
民族音楽をやっているうちにエスニックなボイスをよくやるようになって。どこの国ともつかないような声だけの録音もいっぱいしています。

---プロフィールにある、ボイスの録音とは、そういうことだったんですね!

太田:オリジナルのボイスなんですけど、人によってモンゴルのホーミーに聞こえたり、フラメンコのカンテに聞こえるという人もいるし、アラブのコーランに聞こえる人もいる。
どこの歌にでも聞こえるような歌い方をするんです。
ヴァイオリンとも一体となっていて、弾きながら歌います。
向こうにはそういう吟遊詩人みたいな人がいるんですよね。楽器を弾きながら素朴な歌を歌うという泥臭いやつですけどね。

それで山下さんがトルコ公演が決まって「そういや太田ってトルコかぶれがいたけど、本場でこいつを演奏させたら本人どうするんだろうね!」って(笑)。
清志郎さんもそうだったけど、山下さんも面白がりなので、私を連れて行って本場で歌わせて様子を見たいと思っちゃったみたい。恥をかくかどうかも、それが見ものだと思ったようで。
それで「太田のトルコ」をやる条件のもとに、山下さんの公演に同行することになったんです。

その公演は、トルコのピアニスト、ファジル・サイの主催するピアノ・フェスティバルで、山下さんを日本のピアニストとして招待したんです。
場所はトルコのアンタルヤという街のクラシックホールだったんですが、そこでクルド人のポップスみたいなインチキを歌ったら、スタンディングオベーション、みんな手拍子とダンスをやってくれて、「太田のインチキが世界に通じたね!」みたいな瞬間があって、向こうの新聞にも載りました。

---すごい!その様子を見たかったですね。
インタビューの最後に伺いたいのは、太田さんは即興演奏を極く自然になさっていると思うのですが、私は学生時代に一番濃厚に音楽を学んでいた時期、即興演奏というものに大変苦手意識がありました。
そこで、太田さんに即興とは何か伺いたくて。


太田:即興って、何でもいいんです。アマチュアの方とか、やったことない人の即興のほうが面白いぐらい。
フリージャズとか現代音楽で言うところの即興は、思いついたことをすれば、出したいことをすればいいっていう。そういう考え方なので。そこにいくと即興は面白いです。

---自分が即興について習っていたときは、コード進行のパターンを覚えましょうとか、フェイクとか和音でメロディーを弾きましょうとか、スケールを覚えてとか。そのあたりが覚えられなかったり、照れが出てきたり、ワンパターンになってしまって、自己嫌悪におちいってましたね。

太田:それも大事ですよ。アマチュアの人の発想って凄くて、僕らから見たら目から鱗みたいなことはしょっちゅう起こるんですが、じゃあそれを商いというか生業として続けるのには、やっぱり今おっしゃったような訓練とか知識が両方必要なんですよね。
ただ実際やるとなると、それを全部取っ払うといいんですけど。もう全部ナシっていうところから始めたらいいんですけどね。

---そうですか。アーティストが時々即興のワークショップなどされているようなので、そういうところから入っていくのも一つの手ですかね…。

太田:板橋文夫さんもやってましたよ。時々行った先で、障がいのある方の作業所でワークショップをやっていました。参加してくださいって言うと、歓声がすごいんですよ。
ワークショップに参加すると「そういうことか」と思うこともおありかもしれないですね。絶対できる、それを楽しい、って思うご自分がいらっしゃったら出来ると思います。

やっぱり、こういうのってデタラメじゃん、気持ち悪いなって思う人もいるんですよね。
自分がやりたいのはデタラメじゃないんだって思う人は楽しめないんですけど、こういうのもアリか!と思っちゃうと楽しめますよね。全部ナシでもあるし、全部アリでもある。
それを自分が楽しいと思うか、好きって思うかどうかなんですよね。

---ありがとうございます。いろいろと有意義なお話を伺えました。
本日は長いお時間ありがとうございました。








◆太田惠資 プロフィール
1956年熊本生まれ。

5才よりヴァイオリンを始める。鹿児島大学で化学を専攻。

‘83年上京し、作・編曲家として出発。これまでに、CM、映画、演劇や、ファッションショー、プラネタリウムなどの音楽を数多く手懸けている。

ヴァイオリニストとしては民族音楽(トルコ、アラブ、インド、東欧、アイルランド)やジャズ、即興演奏を得意とする。勿論、スタジオやライブではあらゆるジャンルをこなす貴重な存在で、様々なアーティストやタレントの作品に参加。

日本人離れした声にも定評があり、TV、映画、ゲーム、CMなどに使われている。

またその個性的な風貌ゆえか、パフォーマンス・アーティストとして舞台に立つこともあり、海外公演も多い。

梅津和時の新大久保ジェントルメン、常味裕司(oud)とのArabindia、佐藤允彦(p.)のSTOY、渋さ知らズ、大熊亘(cl.)のCICALA-MVTA、高木潤一(g.)とのMASARA、芳垣安洋(per.)のVincent Atomicus、酒井泰三(g.)とのThe Electric Nomad、一噌幸弘(笛)トリオ、吉野弘志(b.) の「彼岸の此岸」、黒田京子(p.)トリオ、山口とも(per.)との太黒山、佐藤正治(per.vo.)のMASSA、立花泰彦(b.)TOY、超無国籍音楽集団JAZICO、吉見征樹(tabla)とのトーク・セッション「do SHOW(どぉしょう)」などのレギュラーメンバー。

共演アーティストも多く、あがた森魚、明田川荘之、板橋文夫、上田力、宇崎竜童、内田勘太郎、内橋和久、おおたか静流 、片山広明 、カルメン・マキ、黒沢美香(dance)、黒田京子、小室等、斉藤ネコ、酒井俊、坂田明、渋谷毅、白石かずこ、仙波清彦、高橋竹山(二代目)、武元賀寿子(dance)、谷川賢作、知久寿焼、千野秀一、友部正人、中村善郎、灰野敬二、原マスミ、巻上公一、山下洋輔、レナード衛藤 、(五十音順) Alan Silva、Billy Bang、Carlo Actis Dato、Joëlle Leandre、Loren Newton、Zakir Hussein等々。

吉良知彦(Zabadak)プロデュースによるオムニバスアルバム「SONGS」(BIOSPHERE)では、自作曲でボーカルデビュー。

ユダヤ人のヴァイオリン弾きとして出演した「GHETTO」(栗山民也 演出)は読売演劇大賞、毎日芸術大賞などを受賞した。

忌野清志郎の全国ツアー(武道館など)をサポート。

また、清水美沙主演映画「人間椅子」(江戸川乱歩原作・水谷俊之監督)・ 浅野忠信主演映画「白痴」(坂口安吾原作・手塚眞監督・橋本一子音楽)などに謎のヴァイオリン弾きとして出演。

NHK-BS「滝のアリア」(松見の滝-太田惠資 編)。 文学座公演「アラビアンナイト」、文楽人形「曽根崎心中ROCK」(近松門左衛門 原作・阿木燿子 構成作詞・宇崎竜童 作曲)に参加。

上記の各レギュラーユニットの他、大槻ケンヂ、ソウル・フラワー・ユニオン、手使海ユトロ、中川ひろたか、ハシケン、弘田三枝子、The Boom、Cocco、Rikki(ファイナルファンタジーX挿入歌)、Yae、など多数のCDに参加。

TBS紀行番組「世界ウルルン滞在記」、TBSドラマ「年下の男」、同「高原へいらっしゃい」、NHK金曜時代劇・藤沢周平原作「蝉しぐれ」、映画「ニワトリはハダシだ」、アニメーション映画「河童のクゥと夏休み」、NHK大河ドラマ「龍馬伝」、日本テレビ終戦記念ドラマ「犬の消えた日」(作曲も担当)、映画「るろうに剣心」等の音楽でヴァイオリンやヴォイスを担当。

リーダーアルバム「Blue Ronde a la Turk」(ピアニストBill Maysとのduo)を発表。

毎月多彩なゲストを迎え、100回にも及ぶミュージックショー「ヴィオロンの太田惠資 ややっの夜(や)」を主催した。

今掘恒雄(g.)、岡部洋一(per.)を迎えて初のリーダーバンドYolcu-Yoldaş(ヨルジュ・ヨルダシュ)を結成。

トルコのピアニスト、ファジル・サイが主催する「アンタルヤ国際ピアノ・フェスティバル」に、山下洋輔のユニットで出演。


太田惠資 Official Web Site
https://violin-ohta.com/index-j.html


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太田さんの公式サイトのスケジュールよりご確認下さい。


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