今回は長年ギタリスト・作編曲家としてご活躍、そしてプロ養成ギタースクールG-Works講師として後進の指導もなさっている矢萩秀明さんにご登場いただきます。
矢萩さんといえば特に「八神純子&メルティング・ポット」を結成しバンドマスターとしての活動が有名ですが、他にも多数のコンサートやレコーディングにご参加されました。
本インタビューは対面で行われましたが、ベテランならではのエピソードやプロとして長年やっていくためにはどのような心構えが必要か?など示唆に富むお話を沢山伺うことができました。
プロを目指す若い方にもぜひぜひお読みいただきたい内容になっています。(2025年1月)

---まずは矢萩さんの学生時代やプロになるまでのお話をお伺いいたします。
矢萩さんは宮城県ご出身とのことですね。いつ頃から音楽を好きになったのでしょうか?


矢萩:中学生の時に、卒業していく先輩を送り出す会でザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」という曲をギターをかき鳴らして歌った人がいたんです。それを見てかっこいい!と思い衝撃を受けたんですよ。
それまでは音楽に全然興味なかったんですけど、そこからギターを始めました。
ただ、バンドメンバーがなかなか集まらなくて。特ににドラムを持っている人がいなくて、同級生のキムラくんという人を焚きつけて、「お前ドラムセット買え」って(笑)。

---どのような場所で練習されていたのですか?

矢萩:中学生だし田舎だから、リアカーに楽器を積んで公民館で練習とか、山に行って練習とか。納屋とかゴルフ場の物置でも練習しました。
みんなにうるさいって言われますからね、練習する場所がなかなかなくて大変でした。

---なんとか練習したい!というエネルギーと工夫が凄いですね!
矢萩さんの初めてのギターはどのようなものを使っていらしたのですか?


矢萩:中学の時はまだ兄のフォークギターにマイクを取り付けて弾いていたのですが、その後親にねだって、中古の5000円のグヤトーンのギターを買ってもらいました。

---グヤトーンですか?

矢萩:今はもうなくなったんですが、「グヤトーン」っていうブランドがあったんです。
その当時はベンチャーズとか、ギターインストバンドが大流行していた時代ですね。
ただ、ベンチャーズといえば私の兄たちの世代なんですよね。私たちの世代はドンピシャではなく、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンとかディープ・パープル、クリームが出てきた時期ですね。

ただ、まだベンチャーズ時代の名残は色濃く残っていたので、 ロックをやるギターではなくて、ああいうベンチャーズ系の音楽をやるためのエレクトリックギターでしたね。

白石高校に進学して、少し活動範囲が広がったんです。仙台の高校に入った友達もいたので、集まって一緒のバンドを作ったり、仙台の勾当台公園のアマチュアバンドのフェスに出たり、年齢を偽ってディスコで演奏したりしてました。

---仙台の当時の音楽シーンには興味がありますね。

矢萩:当時、仙台に「ラブセッション」というバンドがあって、そのギタリストがサイトウ君というのですが、彼とフェスを通じて仲良くなり、セッションしたり一緒に行動するようになりました。
その彼が、ディープ・パープルが初来日して武道館公演するというので、「俺は観に行くぞ!」と言うんです。「俺も連れてってくれ」と言って、一緒に観に行きました。それが初めての東京でした。
そこで本物のディープ・パープルを観て衝撃を受け、プロを目指す気持ちがより強くなってきたわけです。
そのラブセッションもバンドごと東京に出てきて、みんなプロになったんですよ。
そのバンドはもうないですけど、サイトウ君もしばらくプロでやってて、今はどうしてるか分かりません。連絡が取れれば会いたいですね。

---矢萩さんの、人との出会いがプロへと導いていった感じですね。

矢萩:当時、僕より年上のSさんという音楽好きの男性と知り合ったんです。ギターも弾くしオルガンも上手な方でした。
高校が終わると夜な夜なSさんのお宅に通い詰めて、いろんなレコードを聴かせてもらったり、家には楽器や録音機材なんかもあったので、セッションしたりして、音楽を作る楽しさが分かったんです。
そういうこともあって、音楽以外考えられなくなっていました。

---ご両親はすぐにプロになることを許してくれたのでしょうか。

矢萩:白石高校という進学も十分考えられる高校なので、親としては「仙台の大学に入って、医者か弁護士になれ」と。親の勝手な望みでしたね。
ところが僕はもう音楽以外興味なかったので、大学に行っても何もやることがない、プロになりたいと言いましたら大反対されまして。
僕はギターで身を立てたいと思っていたのですが、親はそういうのは全部ひっくるめて「芸能界」だと考えていて。「芸能界はそんな甘いところじゃない」と親に諭されました。別に芸能界に入ろうとしたわけじゃないんですけどね(苦笑)。
あと、私は高校の音楽の成績がすごく悪かったので、音楽の先生にも進学しなさいと言われました。

---親御さんはどうやって許して下さったのですか?

矢萩:私は末っ子なんですが、1番上の兄が「俺が家業を継ぐから末っ子は自由にさせてやってくれ」と交渉してくれたんです。
それでやっと親から認められて、条件としては音楽学校に入ってちゃんと勉強してからプロになることでした。
そこで音楽学校を探したのですが、クラシックではなくポピュラー系を教える学校って当時全く見当たらなくて。やっと探し出したのが、ヤマハのネム音楽院という学校でした。

---ネム音楽院!伝説の音楽学校ですね。

矢萩:三重県に合歓の里というヤマハのリゾート施設があり、当時そこに全寮制の学校があったんです。
仙台のヤマハに受験要領を聞きに行き相談にのってもらったんですけど、今のままでは合格しませんね、と言われて。その仙台のヤマハで特訓を受けることになりました。
ピアノやギターを習ったり、理論やソルフェージュを先生方に半年間教わりました。
そして受験して合格したんです。

---試験はどのような内容だったのですか?

矢萩:ギターの実技試験は課題曲・自由曲、ピアノの課題曲、ギターの初見。聴音、ソルフェージュ、音楽理論、それから面接ですね。

多分ギリギリだと思いますが合格して、ネム音楽院に入学しました。
てっきり三重県の寮に入るのだと思っていたのですが、私が入学するときから東京の恵比寿に変わりました。
恵比寿のビルに財団法人ヤマハ音楽振興会があって、そこに雑誌の編集部や出版部門がありました。そこにネム音楽院もあって、そこに通うことになったんです。

---寮も恵比寿にあったのでしょうか。

矢萩:新横浜と東横線の菊名の間ぐらいの山の中に寮がありました。そこに入り、四畳半の部屋に男2人。ぎゅうぎゅうに詰め込まれて大変でしたね(苦笑)。

---何年制の学校だったのですか?

矢萩:2年です。昔の学校はスパルタなので、今では考えられないような厳しさでしたね。

---当時はどんな先生に教わったのでしょうか。

矢萩:高柳昌行先生。ジャズ界ではJojoさんって呼ばれて、戦後のジャズギターの始祖みたいな方ですね。それから潮崎郁男先生、神谷重徳先生。
神谷重徳先生は、元々はジャズギタリストで、その後スタジオミュージシャンになり、 その後シンセサイザーに関わるようになって。シンセサイザーというと富田勲さんが有名ですけれども、神谷先生も富田先生に劣らぬような業績を残されている方です。

それから川村栄二先生。川村先生は元々アンサンブルを教えて下さった先生なのですが、編曲家志望で、途中で編曲家になりました。
今や日本レコード大賞の編曲賞を受賞して、押しも押されぬ超有名編曲家になっています。
今でも時々呼び出されて、ご自宅に行くと3時間ぐらい説教されます(笑)。怖い先生なんですよ。褒められたことは一度もありません。ずっと叱られてます。

---錚々たる顔ぶれの先生方だったのですね。

矢萩:他には、つい先日亡くなったドラマーの猪俣猛先生。サックスは渡辺貞夫さん。日本の一流ミュージシャンたちが揃っていました。

同級生では、BOWWOWの山本恭司くんや、同世代では松下誠というAB'SやParadigm Shiftで有名なギタリストがいます。
それから、先ほどの寮のルームメイトだったのは面谷誠二といって、一時は音楽制作会社をやってたんですけど、今はウクレレやハワイアンにハマって、ハワイアンの音楽活動をやっています。
同世代のギターでは、末原康志もいたんですが残念ながら数年前に亡くなりましたね。

---末原名人はお会いしたことがありますが気さくで素敵な方でしたね。インタビューさせて頂きたかったです。

矢萩:末原はいい男でした…。うん、残念です。
あとは1学年下に、カシオペアのキーボードだった向谷実さんや、プリズムのベースの渡辺建さんがいましたね。
3〜4学年下にはピアニストの国府弘子さん。1学年上にはやはりお亡くなりになりましたがギタリストの松原正樹さんがいました。
私は6期生だったのですが、1期でダントツに有名なのは作編曲家の大村雅朗さんです。松田聖子さんの作品などで有名ですね。

---大村さんのアレンジは素晴らしいですよね。ネム音楽院ご出身だったのですね。
それにしてもネム音楽院からは沢山のミュージシャンが輩出されたのですね。そのネム音楽院に入学されて、相当密度の濃い勉強をする日々だったのではないでしょうか。


矢萩:そうですね。たくさん授業があって、実技の授業も多かったので大変でしたね。
田舎から出てきた山猿のような自分ですから…。音楽の一夜漬けみたいな特訓を受けて音楽理論も勉強はしましたけど、まだ全然わかってないっていう時ですからね。
譜面もまだろくすっぽ読めないし、音楽的視野がすごく狭い時でした。
学校に入って初めてジャズの手ほどきを受けましたが、もう何がなんだかチンプンカンプンでしたね。

---矢萩さんのネム音楽院時代はいろいろなエピソードがありそうですね。

矢萩:渡辺貞夫さんのレッスンは、特にギター科にはないんですけど、よく学校にお見えになっていました。学内でビッグバンドを指導されていたんです。
まだお若くて目つきも鋭く精悍な方で、当時は怖かったですよ。

学校の廊下でギターを練習していると、そこを渡辺さんが通ってギロっと僕を睨んで「お前お前!」って指さすんです。「はい」って言うと、「お前ちょっと来い」と言われてビッグバンドの練習のところに連れていかれて、「お前、ここでギター弾け」。
ギターで4ビートを刻めってことなんですけど、そういうことがしょっちゅうありました。別に怒られはしないんですけど、いきなりつかまって弾かされるという(苦笑)。

---ナベサダさんの今の柔和な雰囲気からは想像つかないですね。
ネム音楽院に行かれて、その後プロとして演奏するようになった経緯についてはいかがですか?


矢萩:山本恭司くんと出会ったことが大きいですね。
山本くんは入学してきた時から、先生たちもびっくりするぐらい上手かったんです。彼は在学中にBOWWOWでデビューしました。すると、その話題が学校中に広まり「あいつまだ在学中なのにデビューしちゃったぞ」と同級生たちが焦ったり動揺して、「俺たちはこんなところでずっと勉強ばかりしていていいのか?遅れを取るぞ」と中退してプロになる人たちが続出したんです。
高中正義バンドのドラマー宮崎まさひろとか、ベースの藤岡敏則とか。
僕もその一人です。

---そうだったんですね!

矢萩:僕の場合はもう一つ、ベースの真鍋信一先生というスタジオミュージシャンに相談したところ、「こんなところにずっといてもプロになれないぞ」って言うんです。
衝撃を受けました。プロになるためにこの学校に入ったのに…。じゃあどうしたらいいんですか?と聞いたら、「学校辞めて俺のバンドに入れ」と言われたんです。

真鍋先生が最初にやったバンドは、ハコバン(注:お店の専属バンド)だったんですよ。
合歓の郷の「クラブ夢殿」、三重県鳥羽市の国際ホテルの「クラブシーホース」。この2か所を掛け持ちで、大体一か月おきに行ったり来たりして演奏する仕事を始めたのが、一応プロ入りの最初です。一年ぐらいやったかな、辛い日々でした。

---どのように辛いものだったのですか?

矢萩:クラブには毎晩歌手が歌いに来るんです。マネージャーと2人で。
で、マネージャーが分厚い譜面の束を持ってきて、「今日のショーはこれをやるから」と譜面台にドサッと置くわけですよ。
その後「譜面合わせ」というのをやります。譜面合わせというのは、譜面のサイズとかテンポとか重要なことを確認し合うだけなんです。
歌が終わったらサックスソロ、ギターソロ、終わり方はこんな風に、みたいなことを譜面見ながらチェックするだけ。
それが終わるとしばらく時間があいて、本番になる。つまりリハがないんですよ。

---たったそれだけで本番とは!

矢萩:プロはそれでバッチリやっちゃう。しかし私は中退してプロになったものの、そんな能力はないわけです。譜面は読めないわ、何を言ってるか分からないわ、途中で譜面を見失って弾けなくなったり、間違ったり。そんなことの連続で、当然歌手の方は怒るわけですよね。本番が終わってからバンマスに連れられて謝りに行くんです。歌手のところに土下座して床に頭をこすりつけて。
歌手はもうカンカンに怒っていて、「ギャラ払ってるのに、なんだその演奏は!それでもプロか!」とずっと責められ続けるんです。反論の余地がないので、ひたすら謝って謝ってという毎日です。

---お話を聞いてるだけで辛くなってきます。

矢萩:東京から住み込みで来ていて、知らない土地だから知り合いもいない、まだ仕事を始めたばかりだからギャラもない。土地勘もないし、もう逃げようもない。
もうどこにも行き場はないんですよ。そこで頑張るしかない、もう後がない状況でとても苦しい一年間でした。
でも、先輩たちは叱りはするけど、クビにはしない。そうやって、育ててくれたんですよね。待っててくれたというか。僕は必死で練習しました。

そういうのを一年ぐらい経験して、そのバンドは解散。その時に貯めたお金があったので、東京に戻ってきてぶらぶらしてたんです。ミュージシャンは仕事が無いなんてざらですからね。
そしたら先ほどの、高中正義バンドのドラマーの宮崎まさひろ。彼は一足先にプロミュージシャンとして成功してたんですよね。

彼から電話があって、「矢萩、いまお前何してるんだ?」って言うから、「ハコバンが終わって東京に戻ってきてぶらぶらしてる」と言ったんです。「じゃあお前、ギター担いで渋谷のこのスタジオに来い。今すぐ来い」って言うんですよ。「何かあるのか?」と聞いたら「いいから黙って来い」と言われて。
「勝手な奴だな」とかブツブツ文句言いながら指定されたスタジオに行ったら、オーディションをやってたんです。

---どんなオーディションだったのですか?

矢萩:昔、ヤマハの世界歌謡祭というのがあり、「いつのまにか君は」という曲でグランプリをとった浜田良美さんという男性歌手のバンドのギターのオーディションだったんです。
そんなことを知らずに行ったら、宮崎が「よく来た!スタジオに入れ」って。
「浜田さんのオーディション、お前受けろ」って言われてびっくりして。
そこで譜面を渡されて、バンドの皆さん・浜田さん・マネージャーとかみんないる中で一緒に3曲ぐらい演奏したんです。

終わると今度はみんながスタジオの隅に集まって、時々僕のほうをチラッと見ながら何か相談してるんですよ。嫌なムードだなと思っていたら、「合格!」と言われて、浜田さんが「ツアーに出ることになるからね。よろしくね」って握手をして、いつの間にか僕はそのバンドのギタリストに収まってしまったんです。20歳ぐらいの時でしたね。

---あっという間に決まるとは…。すごいお話ですね。

矢萩:浜田さんのバンドは歌手のバックバンドなので、ハコバンから見るとちょっとランクが上がったんです。ギャラも全然違うし、付き合う人たちも違ってくる。
浜田さんは当時、財団法人ヤマハ音楽振興会の歌手ということになるんですけど、ヤマハには他にも歌手がいるので、そこには当然スタジオミューシャン、バックバンドのミュージシャン、プロデューサー、アレンジャーやら作曲家やら作詞家やら、そういう人たちがたくさんいるわけです。そういう人たちと付き合う。急に世界が広がるんですよ。

ハコバンの時は限られた場所で毎日、ホテルの人かバンドの人ぐらいしか会ってないわけですが、そういう世界に入ったら急に音楽業界のいろんな人たちと知り合いになって、活動範囲がぐっと広がって。
そのうちヤマハの他の歌手の伴奏もやるようになったりして。それに浜田さんの時に初めて全国ツアーというものも経験しました。

ゴダイゴ、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんのブルース・バンド「サンハウス」、Char。みんなデビューしたばかりでした。浜田さんもそうですね。こういった若手が組んで、カネボウ化粧品がスポンサーになって全国ツアーをやったんです。

---ゴージャスなメンバーですね。

矢萩:そこでゴダイゴの浅野さんと仲良くなったり、Charと仲良くなったり。いい経験でした。
そうやってヤマハの仕事を中心に広がっていったんです。

そして八神純子さんを紹介されました。彼女もヤマハのポプコン(注:ヤマハポピュラーソングコンテスト)出身で、デビュー前にシングルを出していたんですが全然売れなくて。イメージチェンジして売り出すことになったんです。

ディレクターから呼び出されて、目黒に移転した財団法人ヤマハ音楽振興会に行ったところ、「この子、八神純子っていうんだけど、今度デビューするので面倒みてくれない」っていう話になり、「喜んでやります!」ということになりました。
で、「バンドでやろうと思うので、バンドが必要なんだよね」と言われて、当時僕は自分の「矢萩バンド」というのを持ってていろんなライブをやってたので、そのバンドではいかがですか?と提案したら、そのバンドで行きましょう!と簡単に決まりました。

---その「矢萩バンド」のメンバーはどのような方々だったのですか?

矢萩:ドラムの宮崎まさひろ、ベースの藤岡敏則、キーボードの田代修二、パーカッションはアンディ檜山。アンディ檜山は亡くなりましたが後にチェッカーズのバックで活躍しました。そういうメンバーで始まったんです。

で、八神純子がご存知のようにヒット曲を連発したので、おかげ様でバンドも有名になり、業界の中で引く手あまたになりまして、沢山の仕事をやることができました。

---八神純子さんはどんなお人柄でしたか?

矢萩:最初は素朴な女の子でしたね。元々はフォーク系というか、そんなにアメリカナイズされた音楽をやっていたわけではないんですよ。それをディレクターがニューヨークが似合いそうな都会的な女性のイメージに作り変えた。バンド名もメルティングポットに変えました。やがて、そのイメージで大ヒットして定着して、だんだん八神さんも変わってきました。

八神さんは1983年にヤマハを離れて移籍するんです。僕はそこまではメルティングポットをやっていたと思います。僕が中心となってバンドをまとめて何か仕事をする時は、たいてい「メルティングポット」という名前をつけてたんですよ。だから八神さんだけじゃなく、他のアーティストでもメルティングポットで仕事をしている例がありました。

---たとえばどんなアーティストですか?

矢萩:浜田良美さんとはちょっとだけメルティングポットでやってたことがあります。三浦友和さんはレコーディングだけですが、メルティングポットのメンバーがやっていたりします。あとはシグナルとか、Tinnaという女性二人組(惣領智子さんと高橋真理子さん)とか。
伊豆田洋之さん、佐々木幸男さん、桑名晴子さんもメルティングポットでやっていました。

---プロフィールを拝見すると、矢萩さんは松原みきさんともお仕事されていたんですね。
松原さんは残念ながら若くして逝去、現在シティポップ・ブームで「真夜中のドア」が大人気ですが、松原さんはどんな方でしたか?


矢萩:すごく自分のやりたいことがはっきり分かっていて、音楽の細部にわたり、ああしたい、こうしたいというものがはっきりとある人でしたね。やはり歌が個性的で、伴奏をやっていてとてもやりがいのある人でした。

以前、原宿のラフォーレにホールがあって、そこで彼女がライブをやるということでそのために特別アレンジをしてほしいと依頼され、私が全曲アレンジをし直したことがあります。
その時は私は演奏はせず音楽監督のような立場でした。
その時に、この曲はこんなイメージにしたいとか明確なものがちゃんとある方で、とてもやりがいがあったんです。

ただね、僕が関わったのは、松原みきちゃんの音楽人生の歴史の中では後期だったんですよ。「真夜中のドア」のヒットは割と初期の話なんです。後期はそういうヒットもなく、どんどん落ち目になっている時期でしたね。みきちゃんは当初は全国ツアーもやってたんですけど、僕がバックをやる頃にはそういうツアーももうなくてライブハウスツアーでした。
待遇もものすごく悪くなっているし、ギャラもダウンしていて仕事自体少ない時期でした。

もっと売れなくなると、所属事務所が彼女を解雇して面倒みなくなったんです。
そうするともう、実質活動できなくなるので。それを見かねた方たちがボランティアでお手伝いに来るようになった時期もありましたね。
その後は誰も関わらなくなり、それでも彼女なりに一生懸命やっていたようですが、一度偶然再会した時に話を聞いて、僕は涙が出ました。なんて水臭いんだ、一声かけてくれれば、力を貸してほしいと言えばいいのに、と思ったんですが、僕も別のリハーサル中だったので、その言葉を飲み込みました。それがみきちゃんと会った最後です。

---そういうことがあったんですね…。今はこんなに大人気なのに。

矢萩:そうなんです。だからみきちゃんを知っている当時のミュージシャンたちは、なんか嬉しいような悲しいような複雑な気持ちです。「なんだよ、今ごろかよ」と思います。
当時は全然相手にもしなかったのに、今になってこんなにもてはやしてるなんてと思いますね。
また日の目が当たって良かったとは思うんですけど、残念でなりませんね。



松原みきさんの思い出
https://g-works.gr.jp/column/109/

---そんな素敵な一生懸命な方だったと伺うと余計悲しくなります。
いま、そのシティポップ・ブームで松原みきさん以外の方たちの楽曲も発掘されていますが、このブームに関してどのようにお感じになりますか?


矢萩:そういう音楽が注目されるのはいいことだとは思いますが、ブームっていうもの自体は過ぎ去るものなので、一時的なことなのか、今後も残るのか…その辺次第でしょうね。
だって八神純子も含めて、シティポップ系、ニューミュージック系の音楽はその当時は日本では当たり前だったわけで。

アメリカの音楽を真似してきた人たちが、やがて日本風に昇華させてシティポップになっていったわけですけど、それが評価されるのが今だってことなのでしょうが、僕たちはそれが当たり前だったんで、いまさら何言ってるんだろうねって感じですね。何も変わっていないはずなんですけど。ずっとそういう人たちは今でもいるし。シティポップを愛し、シティポップをやってる人たちもいるわけですからね、世間が気が付かなかっただけですよね。
それだけ当時日本のミュージシャンのレベルはとても高かったんですよね。



---矢萩さんといえば長年後進のご指導にも力を入れていらっしゃいますね。プロになった生徒さんも多いのでは?

矢萩:そうですね、長いですね。最初はヤマハ音楽院から声がかかりました。
そこで出会ったのが柴崎浩(WANDS)と田川伸治(DEEN)でした。他にもプロになった人はいるけど、一番有名なのはその2人ですかね。
柴崎なんか、「先生、僕はプロになれるでしょうか」って言ってて、 「大丈夫、お前は全く問題ない。絶対なれるから安心しろ」って太鼓判押しました(笑)。

---ヤマハ以外にもパンスクールオブミュージックや尚美などの講師もされて、現在はご自身でギタースクールG-Worksをされていますが、現在はこちらのG-Worksのみですか?

矢萩:そうです。生徒は15人ぐらいです。
ヤマハでは1人で60人ぐらいの生徒さんを抱えている人もざらですが、僕も年をとったし、15人が限界ですね。

---矢萩さんはギター音楽理論のご著書も出されていますが、現在音楽を学ぶ若い人にはどういうことを伝えたいと考えていらっしゃいますか。

矢萩:教室の理念はホームページに掲載していますが、やはり確かな技術や知識、プロとしての心構えみたいなところを併せて教えていますね。それに、プロというのはやはり人間的な成長も必要だということを、レッスンを通して伝えていこうとしています。

G-Worksの運営方針
https://g-works.gr.jp/about/

---レッスン時間はどのぐらいですか?

矢萩:個人レッスンで80分です。長いですよ。

---ちょうどいいですよね。それだけの時間があれば楽器のレッスンだけでなく、じっくり先生とお話もできますね。

矢萩:いろいろな専門学校を経験してきましたが、たとえばある学校だと実技が30分しかなかったりするんですよ。それでは何も伝わらないでしょうね。
いろいろな学校の良いところと悪いところを知った上で、「音楽を通して広く社会に貢献する。古き良き伝統を伝え、新しい音楽を創造する。高い人格を持った音楽家を育成する。能力を開き、個性を開花させる」この4つのことを目標にしているんです。
他の専門学校ではこういったことを言ってるところは、まずないでしょうね。社訓みたいな理想を提示して、このために頑張ろう!と言ってるところはまずないです。

---確かに、素晴らしい目標・理想を掲げていると気持ちが引き締まりますね。

矢萩:利害に走ったり、儲け主義になっちゃう学校は多いですし、それと上手ければいいというわけじゃないですよね。やはり人間としてどうかというところが、ミュージシャンって大事なんで。
なので、教室をやるにあたって、教室といっても一つの団体だからちゃんと魂を入れなきゃいけないと思って作りました。
で、自分も教えていく上で何か迷ったらここに立ち戻って考えればいいと思っています。

---私も東京に住んでいれば習いたいぐらいです。
さて、インタビューも終盤ですが、ご登場下さるアーティストの皆さんには「あなたのCheer Up!ミュージックを教えてください」という恒例の質問をさせて頂いております。


矢萩:僕はマーヴィン・ゲイが好きでよく聴くんですが、その中でも『I Want You』というアルバムが好きですね。



あとはラリー・カールトンも好きなんです。
一緒に演奏したこともあるんですよ。

---ライブで共演なさったのですか?

矢萩:いや、ラリー・カールトンが「Room 335」を発表したあたりに、彼のセミナーがあって、それに参加したんです。確かギターメーカーのセミナーだったかな。
ギターを持って参加しろというので持っていって、最初はセミナーを受けて、次のコーナーは参加者とラリーが一緒に演奏できるというコーナーで。
「希望される方は手をあげてください」ってなった時に、会場がシーンとなったんですよ(笑)。
僕は先輩と一緒に行ったんですが、先輩が「弾け、弾け」「いやいや、先輩が弾いてくださいよ」なんてやりとりがあってね。
そうしたら先輩が僕の手をとって、「はい!この人弾きます!」って(笑)。

主催者が「じゃあ、あなたどうぞ前に出てきてください」ってなっちゃったんで、仕方なく出ていって。「じゃあ何をやりますか?」「Fのジャズブルースをお願いします。テンポはこのぐらいで」と返事して、すぐにセッションが始まったんです。曲は「ビリーズ・バウンス」でした。

---うわ〜、現場を拝見したかったです。

矢萩:ちょうど僕はFのブルースを研究している時期で、ラリー・カールトンだったらこれをどういう風に弾くんだろう?ってすごく興味があったのでお願いしました。
で、一緒に弾き出して、僕のアドリブ、その後カールトンのアドリブ、そして掛け合いという風になり、僕も結構弾いたからカールトンも「こいつなかなか弾くな」と思って自分もグーッと弾くわけですよね。その後掛け合いもあったりしてグワーッと盛り上がって終わったんです。そしたらもう拍手喝采になって。
僕はそこで引き上げたわけですけど、「では次の方」ってなったら、また前にも増してシーンとなってしまって。

---その先輩が弾けば…(苦笑)。

矢萩:先輩は弾かなかったんです(笑)。その後主催者が「あなたどうですか」って次々振るうちに「じゃあ」って弾く人が出てきて成り立ったんですけど。
そのセミナーには雑誌記者が取材に来ていて、その後に発売された音楽雑誌に「最初に出てきたギタリストがラリー・カールトンと熱いセッションを繰り広げてしまった為に、後の人たちが出にくくなってしまった」という風に、なんか僕が悪いような書き方されて、それには僕はとても憤慨しました(爆笑)。

---それはひどいですね(笑)。
インタビューの最後に、今後の抱負や夢をお聞かせ頂けますか?


矢萩:そうですね、年は取りましたけど、まだまだ音楽にかける情熱は失くしてなくて、もっと上手くなりたいんですよね。

---インタビューをすると、充分すぎるぐらい上手な方でも、まだまだ上手くなりたいと言われる方は多いですね。

矢萩:うん、判定がないんですよね。だって、知れば知るほど分からないことだらけだし。
どうやったらそういうことができるんだろう?とか、そういう作曲ができるんだろう?そういう演奏ができるんだろう?こういうサウンドはどうやったら出るんだろう?とか、本当に分からないことだらけですね。
だからそういうものを追求したくてしたくて。

---矢萩さんの作曲方法はギターをつま弾きながらなのでしょうか。それともパソコンを使って作られるのでしょうか。

矢萩:どちらかと言えばギターをつま弾きながらでしょうね。
僕はいろんな理論の先生にも習いましたし、最近も三枝俊治先生というバークリーを首席で卒業された方にモード理論を学んだんです。
いろんな作曲理論を学んでいると技術としても曲を作れるんですよ。別にひらめかなくても作れる。
けど、やっぱりひらめきがあった方がより良いので、どちらかというとギターを弾いてひらめきを得て作っていくほうがいいですね。

そういう音楽を追求していきたい気持ちはあるんですけど、体が付いてこないというのが正直なところです。
だから、生きてる間に自分がどこまで到達できるんだろうか?というのが、自分の今の目標です。
どこまで行けるか分からないですけど、少しでも音楽的に前進したいと思っています。

---矢萩さんのお話を伺い、私も気持ちを引き締めて音楽を学んでいきたいと改めて思いました。貴重なお話を長時間ありがとうございました。



◆矢萩秀明 プロフィール
ギタリスト・作曲・編曲
プロ養成ギタースクールG-Works講師 / 音楽書執筆
Moon Guitarエンドースメント、Shallerエンドースメント、
YAMAHA アコースティック・ギター・モニター、
ヤイリ・ギター・モニター、Deviserギター・モニター、
BOSSモニター

1955年生まれ。出身は宮城県。
ヤマハ・ネム音楽院を中退し、19歳でプロ活動を始める。
その後、浜田良美&スペシャル・リザ−ブのオーディションに合格しツアーに参加。
1977年 八神純子&メルティング・ポットを結成しバンド・リーダーをつとめたことをきっかけに、ヤマハ関係のアーティストをはじめ多くのアーティストのコンサートやレコーディングに参加するようになった。
1985年よりヤマハ音楽院の講師を務め、WANDSの柴崎浩氏やDEENの田川伸治氏など現在プロで活躍する若手ギタリスト達を育てた。
1986年、音楽制作会社トイズ・オフィスの役員及びディレクター兼アレンジャーとして、様々なコマーシャル音楽やBGM、カラオケやアニメCD(林原めぐみ等)の制作を行なう。また、この頃デビュー前の辛島美登里を発掘、歌手デビューさせた経歴もある。
1987年、西城秀樹&ザ・ウイングのギタリスト兼アレンジャー兼バンド・リーダーを勤め、ジャッキー・チェンなどとステージを共にした。
その後、パン・スク−ル・オブ・ミュ−ジックや東京コミュニケーションアート専門学校、尚美などで若手ギタリストを育成した。
1997年にG-Worksを設立。平成7年(1995)の記録では、コマーシャルや劇伴なども含め年間188曲のレコーディングに参加している。
作編曲も手掛け、放送やCMなどに使用されている他に自身のアルバム「AMANDORA(もっと力を!)」をはじめ多くのオリジナル曲を配信している。
スタジオ・ワークにも通じるテクニックやインプロビゼイション理論に定評があり、ヤマハミュージックメディアより多くの教則本を出版し、ロングセラーを続けている。
現在、プロ養成ギタースクールG-Worksの運営と歌手の伴奏や録音、本の執筆などをしている。

参加アーティスト(順不同、敬称略)
八神純子&Melting Pot/渡辺真知子/松原みき/西城秀樹
香西かおり/財津和夫/館ひろし/岩崎宏美/青木美保
香坂みゆき/EVE/小柳ルミ子/黛ジュン/あみん/NSP
千堂あきほ/石川優子/浜田良美/三浦友和/武田鉄矢
永井龍雲/倍賞千恵子/小泉今日子/アリス/堀内孝雄
岸田智史/シグナル/中尾隆聖/植田芳暁/TINA/AKEMI
伊藤麻衣子/円広志/水田達巳/伊豆田洋之/佐々木幸男
ボロ/林原めぐみ/可愛かずみ/太田裕美/Toshitaro
タイロン橋本/サリナ・ジョ-ンズ・ジャパン・ツアー
スティーブ・ベイリー(Bass)セッション・ライブ

ギター教室G-Works
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ギター教室G-Works X(旧Twitter)
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YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UChMx-9oG_7IPJQdCG-o_85Q


(著書の一部)



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