第七回 「バンドブームのこと」その3





1983年だったのかな。
高校の修学旅行の時、宿の部屋のテレビがついていて、そこにチェッカーズが出ていました。

チェッカーズの名前を聞いたのも見たのもそれが初めてで、最初は、何なのかわからず見てますと、バンドなんですね。
すごくアイドルっぽくも見えたけど、すでに人気のある良い感じのバンドでした。

僕も、その時、The東南西北をやってて、将来このバンドでと思ってたところでしたから、テレビで、チェッカーズを見たときには、ちょっと困ったなぁ、という気がしたのを覚えています。

チェッカーズがやってたのは、1950年代っぽい感じ、僕達はビートルズの初期あたり、1960年代前半の感じ。漠然と目指すところは違うのだと思いながらも、なんというのか、先にやられた、という変な感じがしたんです。

こんなバンドが、すでにデビューしていては、僕らが出ていくと、二番手に見えないか、というような小さな焦り。

若い男子たちの集まりが、バンドになって、ロックンロール近辺の音楽をやってるという共感もあったと思いますが、あんなテレビ的な見せ方が、自分らには出来るのかという疑問とともに、ああいうのとは違うのだと、あえて見ないようにしようとする意識もあったかもしれません。

すぐにチェッカーズは社会現象になっていき、まわりにファンも多くなります。そうなると、もう、僕など無関心という態度。バンドのメンバーの間でも、特にそこに触れることもなく過ごしていたと思います。

尾道にいては、チェッカーズは、まったくテレビの中の出来事だったわけですが、僕達がオーディションで中国地区、全国と進んでいくと、そこには、普通にチェッカーズと仕事をしてる人たちが、沢山いて「君たち、いいね」とか「がんばろうね」とか、言ってくださる。

そのころ、C-C-Bとかサリーなど、若い男子のバンドがヒットしていましたから、当時のCBSソニーオーディションの審査の基準というか、審査員の見るところも、どこか、そういうヒットバンドを意識していたところもあったと思います。

ただ、オーディションに勝ち残ってきてるバンドで、十代は僕達だけだったと思うし、他の入賞者を見ても、聖飢魔U、LOOK、種ともこさんと、超実力派ぞろい。

だから、The東南西北のようなバンドが優勝できたところには、チェッカーズやC-C-Bのヒットがあったから、という部分も少なくはないでしょうね。

実際に、デビューに向けて動く中で、カメラマン、スタイリスト、雑誌の編集者など、多くの方々が、やはり、チェッカーズのブレーンでもあるような人たちで、皆さんとっても活き活きと仕事をされてて、想像力にあふれ、とっても楽しく、刺激的な方々でしたよ。

色んな雑誌などの撮影やインタビューが増えてくると、僕達は、なかなかに、ぼーっとしていたようで、よく「君たち、若いんだから、もっと元気に、若者らしくしようよ」とか言われたものでした。出来るだけ、元気一杯、がんばりましたよ。

僕がよく知らなかっただけかもしれませんが、僕達がそうやって雑誌等に載るようになって、そういう雑誌を見てみますと、同じように若い男子のバンドが、沢山出てきているのでした。

バンドブームというより、ファッションの一種といいますか、カラフルで、おしゃれで、80年代っぽい、それまでの、どこか男くさいいわゆるロック・バンドではない、ポップな可愛い感じもするものたちの流行の一種だったのかな、と思います。

それもたぶん、84〜86年ぐらいのことで、すぐにまた、男っぽい、骨太な感じのロックバンドが、どんどん出てくるようになって、ロック・フェスみたいなところに、僕らが出ても、いつもアウェイな感じがして、場所によっては「ゲスト」としての出演も実際ありましたよ。

僕達も、もっと骨太なことをやったほうがいいのでは、というミーティングもあったような気がします。路線変更というのでもないですが、どういう方向がいいのか、ちょっと迷ったりもしたのかな。いや、それでも、自分たちらしいものを、とがんばったと思います。

3枚目から、4枚目のアルバムでは、メンバーも皆で、曲を作ったりするようになりました。

そこから、さらに、イカ天があって、また新しいバンド・ブームがおこっていくんですが、そうなると、もう、僕も、あまり把握していないんですよ。たまに番組を見ても、あんまり、バンドを見てる感じがしなかったのかな。

1990年ごろ、僕は一人で、タイに2週間ほど旅しまして、そのせいかどうか、ふわっと次の「緑の国」というアルバムの制作に入り、まわりのバンドブームとは、あまり関係のないところで、自分達らしい世界観のものが出来たな、と思ったものです。



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