仙台出身のシンガーソングライター、佐野碧さん。力強く美しく心地良い歌声と、元気の出るような曲から哀しみを癒す曲まで表現力の幅広さが魅力。これからの活躍がますます楽しみなアーティストだ。 佐野さんは、2015年4月に発生したネパール大地震の支援活動を継続して行っている。停電の絶えないネパールにヒカリを!と「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」は、ランタンを現地の人々に届けるというもの。 ネパール震災から一年後、第一回のチャリティ音楽フェスティバルを行い大盛況。 そして2017年4月22日に、第二回のチャリティ音楽フェスティバルを終えて帰国したばかりだ。 今回は佐野さんにこのチャリティーフェスについて、またご自身の音楽活動についてお聞かせ頂いた。 (2017年6月) ---佐野さんは、お母様がネパールで学資支援を行っているご縁や、インド声楽をネパールで学ばれたご縁もあり、2015年に発生のネパール大地震のチャリティ―を行われているとのこと。 佐野さんにとっての、ネパールの文化・自然・人々の魅力について教えて頂けますか? 佐野:もともと母がネパールへ頻繁に行っていたため、ネパールは遠い国というようには感じませんでした。 それでも、ネパールへ最初に訪れたときは、全く馴染めなかったのを覚えています。 道に牛が現れたり、ヤギが現れたり、決して平とは言えないデコボコ道などあらゆる面で驚きました。 移動するにも買い物をするにも気が抜けない毎日だからこそ、考える暇がなく、とにかく今を大切に生きれる日々をネパールでは過ごせました。 そんな現実的な面がある一方で、ネパールの文化で私が魅力的に感じるのは、神秘的なところです。いたるところで神様が祭られ、お祈りをする人々がいます。インド声楽を習ったときも、「神様に向かって歌いなさい」と言われ戸惑ったことがありました。 様々な宗教の違いについても、学校や職場で受け入れられる文化もステキだと思います。 街を離れると自然がとてもキレイです。ヒマラヤがあるからなのか、どこにいても空気が、力強く感じます。 上手く言えないのですが、ネパールにいると、感じる想いが全て2倍になるような、磁力のようなものを感じます。目に見えないものを大切する風習が多い理由は、この力によるものなのかと私は感じています。 人々の性格は、どこか日本人と似ており、最後の最後、そばに居る人をほっとけないようなところが私は好きです。 また、とっても心の根っこが明るく感じます。ほとんどの人々が心を開いている様に思えます。 ---一年ぶりに行ってみて、ネパールの復興の具合は、一年前と比べていかがでしたか? 佐野:カトマンズ市内では水道工事をいたる所で行っていました。道路がひっくり返されたり、ボコボコの箇所が目立ちました。 1年前と比べてテントの数は減ったように見えたものの、まだ復興に近づいたとは言えない景色でした。 ようやくほとんどの地域で電力が復旧したものの、今だ復旧していない地域がまだまだあるのも現状です。 ---第二回のチャリティ音楽フェスティバルについて、内容は佐野さんのライブのほか、どんな内容だったか教えて頂けますか? 今年の集客は何人ぐらいだったのでしょう。 佐野:約180世帯のスラムにて、集まった人数は300人くらいだったと思います。 若い方が特にに多かったです。 地元に根付いたイベントがしたく、地元のダンサーや歌い手さんに出演して頂き、とっても盛り上がりました。 衣装もとても素敵だったし、練習を重ねた跡が見え、パフォーマンスも素晴らしくその姿を見てとても嬉しかったです。 ---フェスティバルでは、Manda: bandというネパールのバンドとのコラボレーションなさったとのこと。彼らとの出会いのきっかけは? 今回のネパールでのライブは、すべてこのバンドとの演奏だったのでしょうか? 佐野:vol.1のフェスティバルのとき、HIKARI SONG GIFTの公式テーマソング「千の灯火shanti」で共演して下さった世界的バンスリ奏者ラマン・マハラジャンさんを当初お誘いしたところ、ヨーロッパツアーの最中でした。 そこで彼は、息子さんを紹介してくださりました。そのバンドがManda: bandだったわけです。 彼らもこの企画に賛同してくれて、一緒にやることになりました。 今回は頭の2曲を除いて全て彼らの演奏で歌いました。 リハーサルは前回は1回だったのですが、今回は彼らから「2回はリハーサルをやりたい」と言ってくれて、2回行いました。 こうしてフェスティバルに向け共に向かっていることを感じれる瞬間、とても嬉しいです。 彼らの実力はもちろん、即興力には毎回驚かされます。 音楽に国境はないということを、言葉のない彼らとの演奏の中でいつも実感します。 ---音楽フェスというと、やはり人手がかなり必要と思います。 会場設営などはどのように行ったのでしょう?日本からのスタッフと現地の方々との協力で行われたのでしょうか? 佐野:ネパールに住む母を含む現地ボランティアチーム(Saino Nepal)が中心になり、設営準備を進めました。会場設営(音響、ステージ関係)は、現地のスタッフ(会社)にお願いをしました。 スラムということもあり、やはりセキュリティーの面では、地元で中心に動いてくれたアマ(お母さん)が中心となり動いてくれました。 日本からもボランティアスタッフが来てくださり、ソーラーランタンの管理や配布などを手伝ってもらいました。 それぞれがそれぞれの役割に自然と分かれ、力を合わせてやり遂げました。 とにかく現地の協力なしではできなかったこのフェスティバルです。日本とネパールを繋ぐ架け橋となるフェスティバルだったと自負しています。 ---今回の音楽フェスで印象的だったエピソードを教えて頂けますか? 佐野:ランタン配布からスラムに住むアマ(お母さん)と時間を共にしました。強く、カッコよく、優しいアマでした。 フェスティバルの後、ずっと協力してくれたアマ(お母さん)が大変喜んでくれて、ハグしてくれて「私の娘みたい」って感動して笑ってくれたときが一番嬉しかったです。 ---停電の絶えないネパールの各世帯にランタンを届けるというアイディアはすごいですね。 「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」は、どういった経緯で思いついたのでしょう? 佐野:東日本大地震が起き、地元仙台が変わり果てた姿を見て、そこからライブ時に募金を募って音楽活動をしていました。 そして、2015年のネパール大地震が起きました。母がネパールにおり、ほっとけませんでした。 それがこのプロジェクトのきっかけです。 ネパール大地震から2ヶ月後に私はライブ活動で頂いた義捐金を持ってネパールにおり、気付いたときにはボランティア活動をしていました。ある日、まだテントだらけの旧王宮広場で、歌を歌って見たら?と言われました。私は不謹慎だと思いました。しかし、何かしたい想いが膨らみ、その場で歌を歌いました。 すると、テントの中から子どもからお年寄りまで、どんどん人が出てきてくれました。そして一緒に歌いました。一緒に踊りました。 そこに設置していた募金箱には細かいお金が沢山入っていて、全部で4000ルピー(日本円で約4000円)入っていました。私はこのとき、一方通行でなく共に復興に向かえたんだと心から思えました。音楽の素晴らしさを改めて感じました。 帰国後、ネパールのことを仲間にシェアしていて、一番私が何に困った?という質問がありました。私は電気。と答えました。そこからこのヒカリとなる太陽光で蓄電する持ち運び可能なソーラーランタンに辿り着きました。 そしてランタンはライブ中にキャンドルライトとかわりとして楽しみ、終わった後は家に持ち帰って生活に使って欲しいという想いでフェスティバルを考えました。 同じ震災を経験してる日本だからこそできることがあると思いました。哀しみと未来への希望を音楽と共に分かち合いたいと思いました。 ---今後、「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」はどのような展開にしていきたいとお考えでしょうか。 佐野:ある方が「ネパールを駄目にしてるのは支援だ」と言っておられました。 一方通行な支援はお互いを駄目にすると私も思います。常に地元を中心とした形で楽しく展開していきたいと思っています。 日本のみなさんの想いをヒカリとして届けられることにも幸せを感じます。 ヒカリであるソーラーランタンがネパールで夜道を照らし、その時にこのフェスティバルのことも思い出してくれたら私は嬉しいです。 ランタンは単なる物ではなく、この音楽フェスティバルを通して分かち合う想いとして、これからも繋げていきたいです。 またこのプロジェクトを通して私自身も成長させてもらっています。今からvol.3が楽しみです。 ---ここからはいくつか佐野さんご自身についてお伺いします。 幼少から世界各国を訪れ異文化に触れる機会が多かったそうですが、その中で印象に残る音楽にまつわるエピソードがあれば教えて頂けますか? 佐野:世界各国に行き、異文化に触れることで、世界はとにかく大きいということを幼少期より意識するようになりました。 当時は音楽は意識していませんでしたが、その土地その土地の音は、確実に私の耳に入っていたんだと思います。それが今の楽曲やアレンジに繋がっていると思います。 学生時代に音楽を意識して行った東アフリカにあるザンジバル島では、見たこともなかった楽器を目にし、耳にしました。生で聴いた太鼓の音色、グルーブ感に驚きました。 その背景には、それぞれの国の性格や気候などが関わっているのではないかと思いました。 音楽は、嘘がつけない素直で純粋なものであり、とても素敵なものだということも、異文化に触れることで客観的に感じることができました。 ネパールで学んだインド声楽では、いわゆるドレミファソラシドの間の音を表現する歌い方があります。こういった体験も、表現の幅が広がりました。 ---佐野さんが歌うようになったのはいつ頃からですか? また、音楽活動を始めた経緯は? 佐野:歌うようになったのは中学生だったと思います。音楽活動を始めたきっかけについては、まったくカッコいい理由はありません。 学生時代、目立ちたかった、カッコいいんじゃないかと思ったから、音楽をはじめました。 今思えば、幼少期、トイレに行くにもお風呂に入るにも何処にいても、なくてはならないCDがありました。サックス奏者のケニージーのCDでした。何故かはわかりませんが、このCDが流れると私が泣き止んだと親から聴きました。 幼少期から音楽の力を知っていたら、私は凄いなぁと思います(笑)。 ---学生時代によく聴いた音楽、影響を受けた音楽について教えて頂けますか? 佐野:学生時代は、流行っていたJPOP、HIPHOPなどをよく聴いていました。 家ではネパールやチベットのお経なんかが流れていました。学生時代はそれが怖くてすごく嫌でした。今は不思議とその音色が気持ちよいと感じます。 影響を受けた音楽は、ネパールの音楽、アフリカ音楽、そのほか坂本龍一さんや中島みゆきさん、美空ひばりさんの歌声です。 ---このWEBマガジン恒例の質問です。 佐野さんにとってのCheer Up!ミュージックを教えて頂けますか? 佐野:ネパールで国民的歌手アドリアンさんが歌う「ネパーリホー」です。 現地のフェスでカバーした曲で様々な思い出があります。この曲はネパール人の誇りを歌った曲でサビはネパール人なら誰しも声を合わせて歌えるくらい人気があります。 帰国後、とあるネパールレストランでこの曲を何気なく口づさんでいたら、なんと日本ツアー中のアドリアンさんがたまたまその場にいらっしゃり、曲に対する想いを伝えたら日本でご一緒にミニライブをさせて頂く事になりました。 この曲を聴く度にネパールでの思い出や、偶然の出会いに感謝の気持ちが湧いてきます。 ---佐野さんにとって仙台の街はどのような存在ですか? 東日本大震災から6年。今思うことを教えて頂けますでしょうか。 佐野:東日本大震災があってから、自分のふるさとは仙台なんだという実感がわいたように思えます。変わり果てた姿を見て、ただそこにあった当たり前のものの尊さを感じたからです。思い出がそれを教えてくれました。 仙台は、私を育ててくれた場所。 この場所でたくさんの出会いをもらい、私の今があります。 東日本大震災から6年が経ちます。 震災以降、地元宮城県でライブをして、共通して感じだったことがありました。 みんな「忘れてほしくないけど、思い出したくない。」 だから私はその気持ちを忘れない。 そう思ってます。 ---佐野さんご自身の今後の展望や夢について教えて頂けますか? 佐野:沢山の方々に歌を聴いて頂きたいです。 武道館ライブはもちろん、世界の方々に必要とされるアーティストでいたいです。 この歌が、行き場のない気持ちに寄り添う歌を歌っていきたいです。 ---貴重なお話を沢山、どうもありがとうございました。これからも幅広いご活躍を応援しております。 2016年第一回のチャリティ音楽フェスティバルの様子 千の灯火〜Shanti〜 佐野碧 AOI SANO presents HIKARI SONG GIFT in Nepal(2016.04.24) ◆佐野碧 プロフィール:
作詞、作曲、アレンジ、ミックスを一貫して自身で手掛けている。そのクオリティーの高さから各世代に圧倒的な支持を集める1stアルバム「カルマ」をはじめ、Jリーグ国際貢献テーマソングとなった「千の灯火〜shanti〜」等、数々のシングルをこれまでにリリースしている。 佐野碧オフィシャルHP http://xn--qqqt12h5xq.com/ 公式Youtubeチャンネル http://www.youtube.com/user/Aoifactory 佐野碧公式Facebook http://www.facebook.com/aoi.channel 佐野 碧ブログ http://profile.ameba.jp/aoimusic-ko-m... 佐野 碧Twitter https://twitter.com/aoi_factory ◆最新イベント情報 佐野碧(SANO AOI) LIVE HIKARI SONG GIFT vol.2 〜Cross over〜 日時:2017年6月11日(日) 開場:18:30 開演:19:00 場所: Jazz Me Blues noLa【仙台】 料金:3000円(別途ドリンク代) |