2013年7月21日、デビュー33年目を迎えた竹本孝之さん。 10代、20代、30代、そして現在に至るまで、まさに"素敵に年齢を重ねている"という表現がピッタリの竹本さんに、今回は仙台でのライブ前日にインタビューに応じて頂いた。 当初は音楽のお話をメインに、と思っていたのだが、図らずも竹本さんのデビューから現在までを振り返るような内容となった。 竹本さんのお人柄や人生観が伝わってくるロング・インタビュー、アイドル時代ファンだったという方も今回初めて知ったという方も、ぜひじっくりお読み頂きたい。 (インタビュー:2013年7月12日 仙台市内にて) ---今回はライブで仙台・山形・福島を回られるそうですね。(ライブは既に終了) 竹本:そうですね。今回は3箇所ですね。 本当はね、もうちょっと細かく回りたかったんですけど、東北の県ってけっこう大きいじゃないですか。なかなか交通網が難しくて。 とりあえず今年に関しては、足がかりって言ったら変ですけど、1回行って距離を縮めたいな、と。 1回行くとね。やっぱり違うじゃないですか。 ---そうですね。親近感も違いますよね。 竹本:やっぱりね、何でもそうなんですけど、自分の足で最近、すごく身軽なスタイルでやってるんで。自分でふらっと行けるじゃないですか。 ふらっと1回行っちゃうと、今回もそうなんですけど、いろんな人と会って話ができたりすると、やっぱり違う部分が出てきますよね。 で、今まで遠くて行けないなと思ったところが、思いのほか近いな!と(笑) ---デビュー当時にはコンサートやキャンペーンなどで全国を回られていたんですよね。 竹本:回ってましたね。 ---その頃は、こうやってお時間をとって頂いたり、各地をじっくり味わう暇もないほどのハードスケジュールだったのでしょうね。 竹本:あぁ〜、すごかったね。分刻みという言い方はちょっとオーバーかもしれないですけど。 あれはいつだったかな。東北三大祭りは(キャンペーンで)全部行きましたよ。 竿灯行って、七夕行って・・・それが2日か3日ぐらいの流れで。 当時は移動は電車で動いたり、車だったり。 記憶も定かじゃないけどね。30数年前だし(笑) ---当時のアイドルの方々って、キャンペーンは尋常じゃない本数をこなしていたんでしょうね。 竹本:一か月半のキャンペーンだったのかな、47都道府県全部回って、プラス1つの県で2箇所ぐらい回らなきゃいけなくて、全部で60か所ぐらい! 恐ろしいですね!今じゃ絶対考えられない(笑) ---その間に東京で「明星」や「平凡」の取材などもあったんでしょうか。 1回につき、30分か1時間ぐらいの取材時間ですか? 竹本:そうね、だいたい15分とか30分とか。 とにかく乗り物に乗ってる時間が多かったですね。週3日ぐらい飛行機に乗ってましたし、週4日ぐらいは新幹線に乗ってましたね。 ---当時は寮住まいだったんですか?サンミュージック所属の方は、相澤秀禎会長の家に下宿している、と聞いたことがあります。 竹本:相澤会長の家に下宿してましたね。で、桑田靖子がデビューすることになって上京してきて、私は追い出されました(笑) ---やはりそういう生活をなさるんですね。 竹本:先日亡くなられた相澤会長は、我々としては"親父"みたいなもんですけど・・・教えみたいなもんですよね。「芸能人であっても一介の人間であれ」と。 ---当時のシングルはどのぐらいのペースでリリースされていたのですか? 竹本:そうですね。当時は3ヶ月にいっぺんぐらいかなあ。 システマライズされていて、曲を作るのは自分じゃないわけですから、いろいろと仕事をしている中で曲が作られていて、作られている先に時間が空いたらスタジオに入って・・・っていう感じでしたね。 ---竹本さんのインタビュー等拝見すると、様々なお仕事をされている中でも、"音楽が背骨であり幹である"という言葉がとても印象的でした。 それで今回は竹本さんの音楽の原点について伺いたいのですが、まずいつごろから音楽を好きになったのでしょうか? 竹本:私はギターを始めたのは中一からですね。 そんなに早熟じゃなかったですね。そんなに早くはないと思います。普通かなぁ〜。 だから、中学生になってきて、だんだんこう周りの友達も洋楽とかね。 当時やっぱり九州は熱かったですから!甲斐バンドとかチューリップとか。 そういう時代で、みんながそういうものを聴き始めて・・・。 その頃に私が最初に聴いたのがクイーンだったんですよ。 クイーンがちょうど日本ツアーで来た時に、記念のシングルだったかな、「Don't stop me now」を聴いて、ちょっと目覚めましたね。「これはいい!」と。 当時から、だいたいギター小僧ってそうなんですけど、コードが3つぐらい覚えられると、曲作っていくんですよ。3つぐらいしかコード知らないのに(笑) ま、オリジナルってやつですね。 友達んちとかで歌ったり。やりましたね〜。いろいろね。 (音楽との)出会いは特別でもなんでもなかった。 ラジカセの時代だったんですよ。我々の頃って。 今ではね、皆さんiPodとか携帯に入ってるIC系のレコーダー使って聴くじゃないですか。 我々の頃って、カセットでしたから。ラジオ付きのね、ラジカセなんですよ。 親父に中学に上がった時に買ってもらったのがステレオラジカセで。 スピーカーが2個付いてるんですよ!それまでは1個しかなかった。 1個しかないからモノラルなんですよ。 それがいきなりステレオになって、音がワーッと拡がるようになって。これはスゲーなと。中学になったからって買ってもらったお祝いの品だったんですけど。 それでずーっと聴いてましたねぇ。 ---じゃあ、ラジオもエアチェックしたり? 竹本:ええ。してましたね。AMよりFMのほうが断然音がいい。 FMでも長崎だったんですけど、ちょうど夕方6時ぐらいからやってた音楽番組があって、それを必ず聴くと。 MCんとこいらないから、MCは切る!(笑) まぁ、入口はもう、ほとんど他の人と変わらないと思いますね。 音楽いいなぁ〜、で、自分もギター触り始めて、うまく弾きてぇな・・・って。 でもまぁ結局、"うまく弾きてぇな"から"いい曲作りてぇな"に変わってくるわけじゃないですか。 曲作りたい!ってなってきて、自分が歌うものが人の琴線を揺らすことが出来たら素敵だろうなって思い始めて。 でも、まぁやっぱりそこじゃモノにならないとは思ってますけどね。 だって長崎って日本列島の西の端ですよ。西の端の田舎モンがね、そんなだいそれたことができるわけねぇと思ってましたよ。 ---でも、オーディション(ミスターCBSソニーオーディション'81)を受けられて。 竹本:そうね、それはまぁ・・・たまたまですけどね。 中3の終わりだったかな、オーディションを受けて、まぁ・・・ん〜、なんの間違いか合格しちゃってね。グランプリなんか取っちゃったものですから。・・・やる気なかったんですけどね。 ---えっ!?そうなんですか? 竹本:やる気なかったですよ(笑) ---じゃあ、「せっかくグランプリ取ったんだから」って説得されたんですか? 竹本:う〜ん・・・一番大きかったのがね、やっぱりこう・・・ 「あなたが一人グランプリ取ってしまったがために、落ちてしまった人達が3万何人いるんだよ」って言われて。「あぁ〜、そうか!」と。「君はその人たちの夢まで背負ってるんだ」「あぁー、そうなんだ・・・」と思って(笑) 真面目だったんですね(爆笑) やっぱりそうやって言われるとね、何かしら心にこう、響くものがあるじゃないですか。 自分は別にいい、と。てめぇの人生だから好き勝手やればいいじゃん、って自分は思うんですけど。 う〜ん、別に自分の本意じゃなかったにせよ、応募してしまったものですから。 で、受かっちまったもんだから。いいとこで落ちりゃ良かったんだけど。 だからそこですねぇ、やっぱり一番自分がこう揺れたところですよねぇ。 自分だけのものじゃない。だから、やらなきゃいけないんだ、と。 で、やる以上は、まぁ出来ればね、続けていきたい。 音楽からどうしても離れてしまった時期も、もちろんあったんですよ。 30過ぎぐらいからかな。10数年ぐらいかな。曲が作れなくなってね。 だからその・・・"アイドル"って言われる仕事をしてたのは3年ぐらいしかないんですよ。 最初の3年間ぐらい。高1から卒業するぐらいまで。 デビュー当時から役者もやってましたし、それと同時に自分で曲を作って、音楽を作って、バンドを組んで、ってことをやりたいと。 で、やっと自分の作品が形になったのもその頃ですね。18,19ぐらい。 自分のやりたいことが見えてきて、「どうせやるんだったら俺はこういうことをやりたいんだ」と。で、バンドでライブをけっこうやり始めたのが、19ぐらいの時かな? でもやっぱりそこで回れるって言ったって、東名阪なんですよ。 東京名古屋大阪。行って神戸まで。だから九州も行けなかったし、仙台も来れなかったし。 やっぱりバンドって大所帯じゃないですか。スタッフから何から。それだけの人数引っ張っていくっていうのもやっぱりとても大変だった、っていうのがあって来れないんだと。東名阪でやって、なんかこう自己満足じゃないですけど、"やったよ!"って言ってたんですよ。 でもそれはちょっと違うだろうな、って最近思いますけどね。 それでまぁ続けてきて、30すぎぐらいから自分が作る曲が自分のものじゃなくなった時期があったんですよ。 ---と言いますと? 竹本:あのね、自分が書く詞がね・・・。 もの書いてる人もそうだと思うんだけど、ある程度キャリア積めば、何字以内に収めてね、って収められるんですよ。 メロディがあってそれにうまいぐあいに言葉をのっけてね、って言われればのっけられるんですよ。 のっけられるんだけど、自分の言葉じゃないんだよね。 なんかすごい青臭かったり、こんな達観してるのありえねーだろって思ったりして。 結局曲が書けなくなったんですね。 で、書けなくなったら、無理して書くのやめようと思いましたね。 無理したら書けるんですよ。だから、テクニックで(笑) 書けるけど、それはちょっと違うだろうと。 やっていくんだったら、自分が自分の口から出す言葉には責任を持ちたいな、と。 自分が歌う歌詞にも責任を持ちたいな、と。 だとすると、今は作る時じゃない。 40ぐらいになってからですね、たまたま機会がありまして。ライブやる時にせっかくだから新しく曲書くか。 ってやったら、"ああ出る出る!"って(笑) あ、今ピッタリじゃん。って。 ---それは、ここ5,6年ぐらいですか? 竹本:そうですね。そんなもんですね。40過ぎてからですね。 だから、30代はほとんど曲作ってないです。 ---「中学生日記」に出演されていたのは、30代の頃ですか? 竹本:30代まんなか。2001年からかな。12年前か。35,6ですね。 ---じゃあその頃は「中学生日記」でお忙しくて、「中学生日記」に重点を置かれていたのでしょうか。 竹本:不器用なんで、いろんなこと一緒にできないんですよ(笑) だから、ずっと役者はやってましたけど、先生の役柄ってのは断ってたんですよ。今まで何回も来ましたけど・・・。 古いタイプの人間なんでしょうね、先生はやっぱり聖職だっていうね。 だから、形だけやろうと思えばできるんですよ。さっき言ったテクニックみたいなもんで。形じゃできるけど、本当にじゃあお前先生になれるか? 結局普通のドラマだとね、3ヶ月とか、3ヶ月8本とかね、それぐらいしかできないだろう。 で、「中学生日記」の話が来た時に、昔からの知り合いで「まんが道」の時にディレクターやってた方から紹介されたんですけど、「やってくれませんか?」って言われて、「すみませんけど、私は先生役は断ってます。ずっと断り続けてるんです。だから今回もお受けすることは出来ません」って言ったでしょ、でも「どれぐらいの期間になるんですか?」っていう話をしたところ、「少なくとも3年はやってもらいます」っていう話で(笑) 「3年かぁ〜!」って思って。 3年あれば何かしら分かるかもしれない。 3年間やはりそこにドップリ浸かれば、自分が30代の真ん中になってきて、ちょうど自分の子供でもおかしくないぐらいの子たちじゃないですか、中学生って。 そのぐらいの子供たちが、いま一体何考えてるのかすごく興味があったんですよ。 どういう生き物なのか?っていう。 中学生って全く見えなかったんで。 高校生になるとバイトしてるから。半社会人じゃないですか。義務じゃないし。 で、小学生ってのはけっこうそこらじゅうに居たりするんですよ。 公園とかで遊んでたりもするんで(笑) 中学生だけはさっぱり見えなかった。 「リアルな中学生ですよ」って言われて。 じゃあ3年間・・・って言われながら5年間やりましたけどね。 その間は「中学生日記」以外の仕事は、ほとんどやってないですね。 その代り、家庭にはちょっといろいろ迷惑かけましたけど(苦笑) ---お花の仕事(園芸農家)は「中学生日記」以前からやっていらしたんですか? 竹本:そうです。えらい怒られましたけどね(笑) (中学生日記は)2001年ですからね、12年前でしょ? 一番忙しい時で年間170泊ぐらい名古屋(注:中学生日記はNHK名古屋で制作)に行ってました。乗り日があるんで、都合で200何日取られていて。 花(のほう)は大変だったと思いますよ。パートさんとうちの家内で。家内は全然知らないから、写メ送ってきて、「これはね」って毎朝確認(笑) でも、そこまでしても興味のある世界だったんで。 たぶん私にとってすごくいいことが2つ続いたんだろうなって思いました。 18年前に始めた農業ももちろんそうですし。 それまで自分のことをこう口に出して言うのってあまり好きじゃなかったんですよ。 まあ九州の男ってみんなそうだと思うんですけど。 なんかこう・・・不言実行な感じがするんでね、あんまりこうベラベラしゃべるものじゃねぇと。黙って酒飲んでろ、みたいな(笑) それが、植物は何も言ってくれないんで。 一生懸命、どうしてほしいのか聞くわけじゃないですか、花やってると。 でも素人ですから。私が初代ですからね、何にも分からないわけです、ノウハウも。 わかんないから、失敗してダメにして捨てて、失敗してダメにして捨てて。 どうしてほしいんだ?と。どうすりゃいいの?と、かなり問いかける仕事をしていくと、まあ結局ね、自分のエゴで抗えない世界じゃないですか。お天道様の話ですから。 今年はちょっと気象が異常ですけれども・・・。 やっぱり抗えないものと日々生活していると、そうなると自分の中ですごく柔軟になっていくんですよ。 今年はちょっと気候がこうだから、こうかもしれないね?どう?って言う。 で相手は何も言ってくれない。花の大きさぐらいしか見せてくれないんで。 それが「中学生日記」をやることになって、役に立ちましたよね。 子供たちも、自分からは何も言ってくれないですから。 何も言ってくれないものを黙って見守るっていう、そういう風な考えは、私にはさっぱり無かったですから。それまでの人生で。 九州の男が、っていったら変ですけど、言うだけ言って人のことはあんまり聞かないっていうね(笑) まあ甲斐(よしひろ)さんもそうなんですけど、財津(和夫)さんもそうだけどね。 長淵さんもそうでしょ?みんなそうなんですよ!さだ(まさし)さんもそうでしょ? 九州の男はね、自分のことを一生懸命言うけど、人のことはあんまり聞かないんだよね(爆笑) それからちょっと変わりましたね。私も。 子供たちが何も言ってくれないんで・・・。「誰だ?あのオッサン」って話じゃないですか。 彼らにしてみれば、お母さんは私のことを知ってるけども、彼らは知らないですよ。 なんか、東京から来てる変なオッサンぐらいしか思ってないわけですよ。 「なんでいるの?あの人」っていうふうになっていくから。 それがこう、だんだんだんだん。彼らのことをずーっと見てる。じーっと聞いてる。っていうことで、だんだん壁が下がっていく。 壁が下がっていくことによって、やっぱり話もしてくれるようになるし、こっちも聞くし。 ここ10何年の中で一番大きく変わったのはそこですよね。 人の話をいっぱい聞くようになった。 ---「中学生日記」では、撮影時間以外にも子供たちとの交流はいろいろあったんですか? 竹本:そうですね。私が出てないシーンでも、私ずーっといますからね。 やっぱりちゃんとした番組にして、子供たちに恥かかせたくないっていうのも一つだし、いまディレクターの方も慣れない方がたくさんいらっしゃいますからね、私が知ってることは全て、カット割りから何から、「セリフここちょっとおかしくね?」って全部直して。 その5年間は大変でしたけどねえ。まぁ、でもいい5年だったなと思います。 で、それが終わって40過ぎて・・・40過ぎてですよね、やっぱり。自分の中で、あぁなんか変わったなと。すっごく柔軟になりました。 こうでなくちゃいけない!ってやっぱり思いたがるんですよ、男って。 「こうじゃなくてもいいんだ!」みたいな風になってきたんで。 曲にしてもそうだし。 作る曲がすべからく優しくなった気がしますね。 それはここ数年出しているアルバムを聴いて頂けるとわかるとは思うんですけど・・・。 使い古された言葉ですけどね、"等身大"ってあるじゃないすか。 私も今年で48。48の男が今思っていること、今歌っていても全然違和感ない・・・それを乗り越えると、昔の歌も歌えるようになるんですよ。これは不思議ですよ。 もうそれまでは絶対嫌でしたからね! でも、今の自分が普通にポイッと口から出てくるようになると、昔の歌は昔の歌として消化できるんですよ。 ---昔の歌もアコギ一本で歌われるんですか? 竹本:ええ、全然違和感なく歌ってます。まぁちょっとは恥ずかしいけどね(爆笑) ちょっと照れくさいは照れくさいんですけど、でもそれも自分の歴史だと思えばね。 自分の曲だし、自分の歴史だし、他の人が歌ってるわけじゃないから。 自分のために作られた曲だし。大手振って歌っていいんだから。 それまでってね、新しくなきゃいけないとか、ツアーやるたびに新曲作んなきゃいけないとかさ、そういう決まり事があったんです。自分の中で。 それが最近全然なくなって。 いいじゃん別に、聴きたい人が聴きたいって言ってるんだから歌えばいいじゃんって。 だから、不思議ですよね。 だからって丸くなったとは思ってないんです。自分でも。 丸くなったっていうよりも、幅が広がったかなって思うんですよね。 「それぐらいで別にどうってことねーな」と。 "ZIN ZIN♪"って歌ったとしても、今の曲聴いたら今のほうがいいでしょ?ってやっぱり思うもんね。 懐メロ歌ってる気はさらさらないし。よく考えたら32年前だからね、いい加減懐メロなんだけどね(爆笑) 常に新しいものを探してはいます、もちろん。作り手だから。 アーティストって、そうあるべきだと私は思うんですよ。 常に自分は一年一年変わってくるわけだし、常に新しいものを作り続けるってのは一つだけれども、普遍的なものも必要だと思う。 自分の中にゆるぎない芯があれば。真ん中に一本筋が通っていれば。 なので、最近一人で回れるんですよ。ギター一本で。ジャカジャカっていいながら(笑) それは、私に羽根をくれました。 だって今までだったら札幌行こうとか、鹿児島行こうとか、思わないですよ。思えないですよね。 いいんだ、別にって思って。別にいいじゃん、勝手にギター一本でやろうが、オケちょっと使ってやろうが。来てくれる人が楽しんでくれればいいんだと。 エンターテイメントですから。そこで何するわけでもないから。 ただ歌って、来て下さった方々の時間を満足するものにしてあげたいなと思っているだけだから。 だから今回、仙台に一人の形で初めて来て。 これは始まりでしかないんですよ。 だからこれをスタートにして、次、そしてまた次っていうふうに繋がっていければいいかなっていうふうに思ってます。 ---じゃあ、今後は、アコギ一本という形態にも特にこだわらず、バンドになるかもしれないし、以前SHARAさんと組まれたようにロックテイスト溢れたライブになるかもしれないんですか?ハードロックなライブとか? 竹本:やるかもしれないけど、足腰がもつかどうかわかんないけどね(爆笑) 私と同世代のファンの方が来てくださる。 そこで、私最近ライブ長いんで、それずっとスタンディングっていうのもしんどいなって思うんですよ。 だったら、座ってくださいと(笑) 座ってゆっくりやろうよと。 そんなにしょっちゅうしょっちゅう会えるわけじゃないから、一年に一回会えたんだったら、じゃあゆっくりやろうや、っていうふうな形がとれるようになってきたんだよね。 ---音楽について、これから"こんなことをやってみたい!"というのはありますか? 竹本:年がどうこうという話ではないんだけど、聴かれる方の年齢層も若干上に上がってきている、そうなると横に揺れる曲がもうちょっと欲しいな。 だから、今までずっと縦でノッてたのが、横で聴けるっていったら、イコールジャズ、ジャズテイスト。ジャズっぽい(っぽいを強調)アレンジした曲も今回ライブで何曲かやりますけど。ちょっとジャズの匂いを入れてやりたいなってのがあって。 今はそれはオケだけど、本当はカルテットでやったりとか。気持ちいいよね。 昔の歌を今の声で歌ったらどうなるかな、っていうのも楽しみだし。 いろんなことをトライしつつ、でも王道は外さない。 ---こんな方と一緒に演奏してみたい、というのはありますか? 竹本:そうですねぇ。SHARAさんと一緒にやったライブが東京と米子であったんですけど、ああいう"ジャパメタの祖"みたいな、スーパーギタリストといえば3本の指に入る人たちとやるのもすごい刺激的だったし。 かといって、全然名の知れない人と一緒にやるのも俺、すごい好きなのよ。 やっぱり人と一緒にやるのって楽しいじゃない? 俺いま一人でやってるから、人と一緒にやるのが結構楽しいの。 だからいろんなライブハウスで、いろんな人に声かけて、で、ちょっとピアノ弾いてくんねぇ?っていうのがいま面白いねぇ。 それが著名な方でなくてもいいんですよ、別に。音楽に有名も無名もないから。 2人なり3人なりで一緒にグルーブが感じられたら、それに越したことないんですよ。面白いですよ。 今回仙台に関しては一緒にできる方を見つけられなかったんだけど、山形では一緒にやる方でちょっと面白い方を見つけて。九州もそうだし。いろんな人と一緒に出来ると面白いね。 ちょうど私48になって、今の音楽シーンの中で中間、真ん中ぐらいかな?ちょうど。 上に、こうせつさん、拓郎さん、さださんとか重鎮がばーっといるじゃないですか。 その方々のちょうど一回り下になるんですよ。甲斐さんもそうだし。 甲斐さんは私と同じへび年ですから。今年60。さださんも60。 そこの下の代が私たち。で、その下の代が福山(雅治)とかになってくるね。 まあ中間管理職として一生懸命頑張らないと(爆笑) だから若いコたちと一緒にやって場を提供するのも一つだし、こういうふうに参考になるよってノウハウを教えるのも大事な仕事だと思いますよ。 甲斐さんなんかは特にそうだったんですけど、曲を書いていただいたご縁もあって、もう本当にことあるごとにライブに呼んでくれますよ。さださんも。「来ないか?」って。 何も言わないんだけど、いることによってなんか刺激があるな。 それは素晴らしいことだ、と。 ま、我々世代が一番頑張れる年代ですから。やっとかないと。 ---先日、舞台(下町ダニーローズ第15回公演 演劇らくご「死神が舞い降りる街」)に出演なさったそうですが、竹本さんご出演のドラマもまた見てみたいです! 竹本:ドラマねぇ〜。ドラマは今、本数が少ないってのもありますよね。 ドラマは拘束時間が長すぎて、ライブ出来ないんですよね。 ライブは今年年間で多分50本近くは本数いくと思うんですけど。 第4日曜日は番組やってるんで。(東京タワーTV 『竹本孝之Live in TOWER』) それ以外の週末だけでこの本数っていったら、ほとんど居ないんですよ。 だから土日ほとんど地方に飛ぶようになると、ドラマは出来ないですね。 うん、それはちょっと無理ですね。 先月、一か月舞台に充ててましたけど、それはもう前々からのお付き合いですから。前々からやらせてもらってますからね。ちょっと難しいですね。 ちゃんと取り組めるものがあれば、やっぱりやりたいなとは思っているんですけどね。 不器用なんでね、2ついっぺんに出来ないんですよ(笑)なかなか難しいです。 ---このWEBマガジンのタイトルは"Cheer Up!"、参加して下さる方々に"Cheer Up!"な音楽(曲でもアーティストでも)を教えて頂くのが恒例になっております。聴いて励まされたり、元気が出たり、気合が入ったり。 竹本さんにとって、そんな"Cheer Up!"な音楽を教えていただけますか? 竹本:私が聴いて元気が出るのは、アリス・クーパーだね(爆笑)いきなり! 最近そこまで気合入れてることがないんで、あれですけど、朝早い時間に、ぼーっとしている頭にカツ入れるのにピッタリですね! アリス・クーパーとかホワイト・スネイクとかね。頭に気合入りますね。 ---最後に、好きな言葉を教えて下さい。 竹本:最近色紙によく書いてるんですけど、 「花には水を 人には愛を」 っていう言葉があって。 花には水が必要だ、人には愛情が必要なんだよ、っていう言葉なんですけど。 必ず色紙にサインする時は入れさせてもらってます。 元々ね、普遍的なものじゃないですか。もう必要不可欠なものだと。 花に水ってのは必要だけども、人には愛情が必要なんだよ、ってことを改めて言うっていうことがね。改めて言わないと。言わない奴のほうが多すぎるんですよ。 だから、それは最近使ってます。 ---今日は長いお時間ありがとうございました。 竹本孝之プロフィール:1965年4月28日 福岡県生まれ長崎県育ち。1981年「ミスターCBSソニーオーディション81」グランプリ受賞、同年7月21日シングル「てれてZin Zin」でデビュー。一躍人気アイドルに。第23回レコード大賞新人賞受賞。以後コンスタントに音楽活動を行い、近年はますます精力的にライブを行っている。 俳優としてはドラマ「陽あたり良好」「だんな様は18歳」「熱き瞳に」「まんが道」「中学生日記」、映画「アイドルを探せ」「菩提樹」「眉山」、舞台などに多数出演。1986年オリーブ映画祭最優秀新人賞受賞。 また、園芸農家を営み講演も行っている。 竹本孝之 Official Web Site http://www.takemoto-t.com/ 竹本孝之 マネージメント office TOMORROW 公式facebookページ https://www.facebook.com/office.tomorrow |