パーカッショニストとして大活躍の松岡"matzz"高廣さん。最近ではTOKYO DISCOTHEQUE ORCHESTRA(TDO)のメンバーとして、1stアルバムをリリースしたばかり。
またTres-menや、ヴァイオリニストの寺井尚子さんのバンドメンバーとしてもご多忙な中、直接インタビューが実現。子供の頃からクオシモード結成に至るまでの詳細な音楽ヒストリー、プライベートの話題、今後の展望に至るまで長い時間たっぷりお話を伺うことが出来た。松岡さんのお話には本当に惹きこまれて聴き入ってしまうので、そのエッセンスを読者の皆様にも味わって頂けたらと思う。(2017年1月)


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---TOKYO DISCOTHEQUE ORCHESTRA(以下TDO)、ついに1stアルバムリリースですね!

松岡:そうなんです!
昨年までの2年間でSILVAさん、JILLEさん、birdさんをそれぞれfeatして、EPを3枚完全自主、WEB販売オンリーで限定でリリースしてきたのですが、おかげさまで、2017年1月1日に、さらにSOULHEADのYOSHIKAさんもfeatして、1枚のアルバムとして全国リリースすることができました!

---4月にはリリースパーティもあるそうですね。

松岡:4月4日に、代官山のUNITにて、オールフルバンドセットにて!アルバムのゲストボーカリストも全員参加で!盛大にリリースライブを行います!
詳細は後々発表しますが、サポートミュージシャンも超豪華なので、皆様ぜひ!遊びに来てくださいね!
学生のみなさんには学割も用意しておりますので!

---TDOの結成はどういった経緯だったのですか?

松岡:元々、渋谷The Roomで"SPUNKY!"(注:松岡さん主催の人気パーティー)をやってて、その前からも現場でちょくちょくお会いはしてたのですが、Watusiさんが遊びに来てくれた時に、カウンターで話をしていて、Watusiさんはディスコ(ダンスミュージック)のガイド本とか出してらっしゃるし、「Watusiさんがディスコのビッグバンドとかでリーダーでやったらめっちゃかっこいいと思いますよ!」「そうかな?」なんて話をしていて、2年前ぐらいから、じゃあ具体的にやろうかということになって、Watusiさんと僕と共通の知り合いでもあり、Studio Apartment、coba、Def Techなどの作品やライブで活躍するアレンジャー/ギタリストの堀越雄輔とで結成というか。





---TDOの今後の活動がますます楽しみです。
松岡さんといえば、人気ユニットTres-men(トレメン)のメンバーでもありますね。
こちらの結成のきっかけは?


松岡:2011年位かな?DJの櫻井喜次郎君とは須永辰緒さんのイベントでよく会ってたんで元々知ってたんですよね。
東京に事務所を構えているという話を聞いて、その事務所に遊びに行って初めてちゃんといろいろ話した後に、僕のブランドMontyacc(モンティアック)でアニバーサリーイベントをやることになったんです。
ちょうど、その近くで櫻井君もイベントやることになってて仮押さえしてたんで、これは一緒にやろうかということになって。
せっかくだからミュージシャン集めてその日だけのバンドを組もう!ということになり、orange pekoeのナガシマトモコちゃん、藤本一馬君などが集まって演奏して。

それがきっかけとなって、面白いからユニットを組もうか?という話になって。
ちょうどクオシモードもいろいろ方向性が変わってきてて、僕以外のメンバーが結構JAZZの中でもトラディショナルな方向へ向かってて、僕はそういうのはやだなと思っていた時期だったんですね。

じゃあこっちでやりたかったことを出来たら面白いかなあと、っていうのもあって始まったんですよね。
それで、BLU-SWINGのキーボーディスト中村祐介君、彼はプレイも出来るしマニピュレーター、打ち込みも得意だからということで声かけて。
こんなご時世、とりあえず3人でいいんじゃないかと(笑)。

---Tres-menの音楽はとてもワクワクしますし、TDOとはまた違ったかっこ良さがありますね。早く新譜が出ないかなあと待ち遠しいです。





---さて、今日はせっかく松岡さんにお会いできたので、松岡さんの音楽ヒストリーについてお伺いできたらと思います。
子供の頃はどんな音楽を聴いていましたか?


松岡:実はここ何年か自分のルーツを探っていて、どこがきっかけだったんだろうな?と考えた時に、幼稚園だったか小学生低学年だったかの頃、伊福部昭さんとジョン・ウィリアムズがダブルで(多分、、)オーケストラと共演するコンサートにお袋に連れて行ってもらったんですよ。
そのコンサートに衝撃を受けて。
映像と音楽の効果というか、繋がりというか・・・これはすごいな!っていうのが、多分、音楽ってすごいなと思った一番のきっかけなんです。

---楽器は習っていたのですか?

松岡:ピアノを幼稚園の先生が自宅でやってた教室で、小1〜小6ぐらいまで習っていました。親がピアノはやっておいたほうがいい、ってことで。
世間はサッカーブームだったんで、もう嫌で嫌でね(笑)。

---松岡さんはスポーツもやっていそうですね。バンドのご経験はいつからですか?

松岡:スポーツもちょいちょいやってたんですけど、そんな続かず。
で、ピアノもだらだらやってて。
僕は品川区なんですけど、品川区の学校はすごく荒れてたんで、やんちゃみたいなのもしてて、バンドやりたいと言いつつもやらなくて中学まではだらだら遊んでて。

高校生になり、それでもまだ、自分自身はどうしようかな?と思っていて、担任が顧問だったラグビー部に体格が良かったからか?(笑) 無理やり入れさせられたんですけど、それも続かず。
というのも、なんで自分が尊敬していない先輩に対して、へこへこしなきゃいけないんだろうな?って(笑)。
そんな時、バンドブームが来て、とりあえずその頃は、みんなが楽器始めるぐらいのブームでした。
悶々としてた僕は、これだ!と思いちょうどドラムが空いてたんで、やるよ!って言って、それが多分きっかけですね。

---ロックバンドですか?

松岡:思いっきりパンクですよ。セックスピストルズとかクラッシュとか。日本ならアナーキーのコピーバンドとか。
そうなると若いし、やってみたいこと見つけたからこれで食っていこうみたいなことになるわけです。
でも、うちは薬屋なんで、両親が大反対して。

---やはり薬屋さんを継いでほしかったんでしょうか?

松岡:そう!それには薬科大学に行かなきゃいけないから、「そっちのほうに進んでくれないと困る」「冗談じゃねえ、そんなのやりたくねえ!」みたいなやりとりがあってね(苦笑)。
今考えるとやっておけばよかった!(笑)。

---大反対されたのに、どうやって許してもらったのでしょう。

松岡:17歳のときに、ピアノの先生やってた親戚のおばちゃんが、知り合いにプロのジャズドラマーがいるというので、そこに無理やり連れていかれて。
その人の前でドラムを叩けばその人からダメ出しが来て、本人が現実に目覚めるだろうっていうことで叩かされたんです。

そしたらその先生が逆に、「これはちゃんと練習したら結構いけるかもしれない」って言うので、親を説得してくれたんです(笑)。
じゃあ習いにおいでよっていうことになって、半分ボーヤみたいな感じで習い始めたんですよ。じゃあこれはマジでやっていこうかって。
そこからちゃんとドラムを始めました。

---やはり最初はドラムからだったのですね。ボーヤというと先生のお手伝いですか?

松岡:そうですね。先生のライブも観るようになって、そのあたりでJAZZをだんだん好きになってきて、JAZZってどうやって始まったんだろう?とか調べていくうちに、「バード」などJAZZの映画を観るわけですよ。
映画の中のJAZZミュージシャンは基本不良だし、当時の最先端のファッションを決めて、お客さんもノリノリで「あーかっこいいな」と思うけど、師匠なんかのライブを観ると、みんな座っておとなしく聴いてるし、ソロが終わったらお決まりのように拍手して(笑)。なんだこりゃ?映画のJAZZと全然違うなあって。

JAZZはHIPな音楽だと思うのに、こんなカルチャーなのか?と疑問に思って、いろいろ観に行ったんです。
某老舗ジャズクラブで某大御所の方々が一堂に会したライブを観に行ったりもしたんですけど、全部同じで。見た目もダブルのスーツで。スーツはスーツでもサラリーマンのリクルートスーツみたいなの着て。
なんか、当時のJAZZミュージシャンが着ていたスーツって、仕立てだし、当時の最先端のファッションだったわけで、それとは違うJAZZ=スーツを着れば良いんじゃないか?みたいな違和感があったのを覚えています。

かたやクラブのほうではacid jazzっていうのが出てきたときで、なんてかっこいい音楽なんだ!と思って。
ラテンだったりブラジルだったり、Swingにしてもパーカッションが入っているような曲もあって、こんなかっこいい音楽あったんだ!と思って。
アフロキューバンとかね。全然無名のミュージシャンとかもいたりして、なんだこりゃ?って感覚でずっといたんですよね。

---クラブには結構通っていらしたのでしょうか?

松岡:18歳ぐらいになってクラブに行くようになって、その後クラブで働くようになったんですよ。
そこで、色々な音楽を吸収しつつ、演奏のほうもプロとしてどうしたらいいのかな?と思った時に、当時はやっぱり・・・今もそうですけど、バークリーとか、ああいうところから帰ってきたミュージシャンってすごい重宝されて、日本では、そういう留学して音楽を勉強してきたっていうだけで全然扱いが違ったりしたんですよ。
そんなのどうでもいいじゃんと思ってて。

まぁもちろん行きたかったんですけど、親も大反対だし、お金もないし、生活だけでも月に20万は仕送りしてもらわないと出来ないって聞いたからこれは無理だと思って。
じゃあ、こいつらに勝つにはどうしたらいいんだ?と思って。ずっと考えて(笑)。

それで、クラブを辞めてから、人がやってないような仕事で経験を積もうと、あまり人に言えないような仕事からまっとうな仕事まで、いろいろな仕事をね。
例えば葬儀屋とか。

---そういう経験があったとは意外でした。

松岡:そう!人の欲とか、死とは何か?とか、そういうマイナスを経験してこそプラスを表現できるかな?って勝手に思って(笑)。

で、20代半ばぐらいかなあ?そのあたりからだんだんキャバレーのハコバンの仕事が入るようになって。
当時はまだキャバレーがいくつかあって、師匠から紹介してもらってね。
3年ぐらいですかね。演奏はもちろん、人としてのマナーなんかも学びましたね。

でも、昼間からダンスホールやって夕方からキャバレー入って、夜中から朝はホストクラブに入って。月2日ぐらいしか休めなくて。頭おかしくなってきちゃって。
音楽で食えてるけど、何やってるんだろう?って思って。

---本末転倒ですよね・・・。

松岡:20代終わりぐらいの頃、ちょうど演奏するお店もだんだんつぶれてきたりして、仕事がなくなったんでもう全部辞めよう!と思って。

その頃、高校の友達が、とある公園でシルバーのアクセサリーを自分で作って売ってたんですが、結構売れてたんです。
それいいな、俺にも何かできないかな?と思ってプリントゴッコでTシャツを作って売り始めたんです。

---プリントゴッコ(笑)。懐かしいですね!

松岡:一年間ぐらい売り続けてました。売れるものはなんでも売ってましたね。

---その時期は音楽から離れていたわけですか?

松岡:もう完全にやめてました。
ある日、その公園に来てた自由人の(いわゆるホーム○ス)のおっさんに、「君、いま悩んでるね?」って言われて。
「これこれこういう理由で人生の岐路に立ってるね?」
「なんで分かるんですか?」
「自分にはなんでも分かる。君もし悩んでるんだったら富士山に登ったほうがいい」って(笑)。

---いきなり、富士山ですか!?

松岡:「日本の生命のエネルギーは富士山から入ってくるから、絶対人生観が変わるから一度行ってきなよ!」って言われて。
で、行ったんですよ、富士山。
そしたらもうめちゃめちゃ気持ち良くなって・・・そこから、「あぁ、やっぱり音楽やろうかなあ!」って思い始めて、Tシャツ売って稼いだお金で初めてパソコン、iMacを買って、初めてインターネットに繋ぎました。

---富士山のパワー、凄いですね。

松岡:音楽やろうかなあと思ったけれど、当時ハコバンでしか演ってなかったから横の繋がりが全くなくて。
まずは横の繋がりを作らないと!と思って、当時メンバー募集のサイトがあったんですね。
そこには、現在活躍してる人たちがいっぱい来てて、いろんなところでいろんな奴に会いました。
とにかくいろんなジャンルやりたいなと思って。
ラテンからBossa Nova、JAZZ、FUNKとかいろんなバンドに行って、その中の一つで会ったのが平戸祐介だったんです。
高速ラテンジャズのバンドでしたね。

---当時の平戸さんの印象は?

松岡:ローズ弾いてて、多分彼も当時留学先のアメリカから帰ってきたばっかりで思いっきりヤンキースのキャップかぶってて、アメリカ人みたいな(笑)。
当時僕もバンドを始めようと思っていたから、いろんな人に会ってたんですけど、まあ、自分のこと棚に上げていいますけど(笑)。みんな演奏はうまくても見た目は・・・良くないっていうか(笑)。オタクな人たちばっかりだったんです。
うーん、どうしよう?って思ってたところ、彼を見た時にこんなファンキーな奴もいるんだ!って。
それで、「東京で若者に受ける様なJAZZ系のバンドをやりたいんです」って言ってたから、「いいね」って返したら、「やりませんか?」って言われて。

---そこからクオシモードに集中なさったのでしょうか?

松岡:同時にレゲエバンドとか、「mizz」ってバンドにも入っていて。
「mizz」には、Studio Apartmentの阿部登さんがいて、SAXとピアニカを演奏してましたね。男性版エゴ・ラッピンって呼ばれてて、すごいいい感じで売れてて、うまくいくかな?と思ったけどいろいろあってバンドは止まっちゃって。
もう一つのレゲエバンドのほうも、止まっちゃって。
結局残ったのがクオシモード。
クオシモードも当時は9人ぐらいいて。ドラム、ベース、キーボード、ギター、パーカッション、サックスが2人いて、ヴォーカルとラッパーがいたんですよ。

---その後4人になったんですね。

松岡:4人になってから、自分たちでストリートライブを始めました。
横浜の某駅前でストリートライブやって、インストのストリートってあんまりないから、めちゃめちゃ話題になって、それで自分たちでレコーディングしたCDを一枚1000円とかで売ったりしてたんですよ。

だんだん、自分たちでイベントも組んでやっていこうよって話になって。
自分たちと対バンでもう1バンド呼ぶようになって。そこにDJを入れて。
DJで入ってくれたのが元DMRの小川充さん。後にクオシモードのプロデューサーになる小松正人さん。それが2004年ぐらいかな?

そして小松さんにプロデューサーになってもらおうということになり、お願いしてプロデューサーになってもらったんですよ。
ちょうどそのころDMRをはじめとするレコード店では、レコードがすごく売れてた頃だったから、じゃあ音源だけとりあえず作ってレコード出そう!日本じゃなくて海外から出したほうがいいかな?という話になって。
レコーディングした音源を、小松さんが大きいフェスで海外の大物DJと一緒になった時にプレイしてくれてたんですよ。
それが耳にとまってスウェーデンのレーベルから12インチのリリースが決まって、それが2005年で、アルバムとしてのデビューが2006年ですかね。

その前に小林径さんのルーティーンジャズというコンピレーションにも入れて頂いてた「oneself - LIKENESS」と、アナログはもう一曲ないとだめだっていうんで向こうで有名なTubby Hayesという人の「Down In The Village」ってヨーロッパのレジェンドの曲があってその2曲を送ったら、B面のほうが「日本人がヨーロッパの有名な曲をカヴァーした!」っていうんでヨーロッパですごい話題になっちゃったんですけど(笑)。
それで逆輸入みたいな感じで話題になったのが最初ですよね。
長々と(笑)。やっとここまできましたけど。


---その後は順調に活躍なさって。JAZZ雑誌の表紙を飾ったり。
皆さんスーツ姿が素敵でしたよね。あれはマッツさんのコーディネートですか?


松岡:いや、あれはね、COOL STRUTTINっていう60年代のジャズミュージシャンの着てたスーツを再現しようっていうコンセプトのブランドがあって。そこがスーツを提供してくださったんですよ!
その後はスタイリストさんが付いてました。

---皆さんのスーツ姿、本当に印象的でした。

松岡:それも当時の想いがあって。同じスーツ着るんでもやっぱりリクルートスーツじゃなくて、洒落たスーツを着たいと思って。あえて、スーツがいいなあって思ったんですよ。

うーん、その時代は良かったですね。ちょうど2006年ぐらい。
まだギリギリCDもすごく売れたし、配信もなかったし、ソーシャルネットワークもmixiぐらいしかなかった。
一回話題になると集中しやすいっていうかね。
歴史としてはこんな感じですかね(笑)。

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