長年第一線で活躍を続けるドラマーの市原康さん。
市原さん率いるピアノトリオ「TRIO'(トリオッ)」が今年も春のツアーを敢行した。
2016/5/13には仙台でもTRIO'のライブが開催され、聴衆は熟練のメンバーの演奏に酔いしれた。
今回は市原さんにTRIO'のこと、今年から本格的に活動スタートの大野雄二&Lupintic Sixのこと、また市原さんの今までの音楽人生についても直接お話をじっくり伺うことが出来た。
また今回の特集では、多くの方に知ってほしい、魅力あふれるTRIO'のディスコグラフィーについて特集すると共に、メンバーの森泰人さん・福田重男さんからTRIO'への想いをご寄稿頂いた。(2016年6月)




<市原康インタビュー>    <TRIO'特集>   <TRIO'メンバーコメント>



---TRIO'のライブツアーは、毎年春に行っているのですか?



市原:毎年春と秋とを目標にしてるんですけど、ベースの森泰人がスウェーデンに住んでいるので、彼を毎回呼ぶわけですよ。
割と小さいライブハウスを回りながら、彼の飛行機代も稼ぎ出さなきゃならない(笑)。
そんなわけで常時活動できないから、出来ても春秋のツアーで活動を続けています。
2004年に開始して、今年12年目です。



---TRIO'の結成のきっかけを教えて頂けますか?



市原:僕は20代の頃から森泰人と知り合いで、一緒に音楽をやっていたんです。
その時のピアニストがウォン・ウィン・ツァン。(注:香港出身の父、日本と中国のハーフの母との間に生まれた)
彼は日本の小学校で育って、僕と同じ小学校で同じ学年っていう繋がりで。今ではヒーリングのほうの草分けみたいな人で。
当時、彼は日本人名を使ってて、江夏健二っていう名前だったんですよ。
森とウォンの3人でやることがよくあったんですね。

でも森がぽっと居なくなっちゃって、全然知らなかったんだけど実はスウェーデン人の女性と知り合って結婚して、スウェーデンに移り住んでいたんです。

で、30年ぶりぐらいに再会して、もう一度森とウォン・ウィン・ツァンとピアノトリオとして一緒にやるようになって・・・そのトリオは凄く面白かったんですが、いろんな理由があって解散してしまって。
僕はすごくピアノトリオをやりたかったんですけど、それがなくなってしまったからどうしようかな?と思っていて。



---森さんとの交流は随分長いんですね。そこからピアノの福田重男さんと出会った経緯は?



市原:元々僕はドラムがリーダーというのは好きじゃないんですよ。
和声的なことでリーダーシップ取れるならいいんですけど、そんなこともできないし、名ばかりのリーダーですよね。
音楽的にどうこうということは言いますけど・・・。
やっぱりピアノトリオという形式に一番興味があったので、ピアニストを探していたんです。

いろいろライブ観に行ったりして、それで福田重男を見つけて。
それで2004年に初めてレコーディングをやって。
レコーディングをやったその夜に、同じ会場でライブレコーディングをやったんです。



---レコーディングと同じ会場というと?



市原:実は僕、時々お芝居やるんですよ。



---お芝居ですか?



市原:僕、時々役者をやるんですよ。「黒鯛プロデュース」という演劇ユニットのお芝居で。
この黒鯛プロデュースというところは一年か二年に一回ぐらい公演をやるんです。
そこに僕はわりとずっと出させてもらっていて。

2004年にホテル日航東京の「マグレブ」っていう、小さなステージのあるラウンジみたいな会場でやったんです。
ゲストに佐藤允彦さん。黒鯛プロデュースは、時々音楽の巨匠をゲストに呼ぶんですよ。前は前田憲男さん呼んだし。
そのときに佐藤さんの都合で、どうしても真ん中の一日だけ出来ないっていう日があって。
しようがないから、(公演の)真ん中の一日は、いいグランドピアノがあるから、「なんでもいいからちょっと使ってごらん」と座長から言われて、そこでTRIO'の初めてのレコーディングをして、その夜にはお客さん入れてライブレコーディングをしたんですよ。
それがそもそも三人の出会いの始まりですね。



---TRIO'の始まりには、なかなかユニークないきさつがあったのですね。



市原:森は普段はスウェーデンにいるから、福田とは互いに知らないんですよ。
そのレコーディングの日に初めて会ったんです。
その芝居が終わったあとに、ツアーも3人でやったんですよ。



---わ!会ったばかりで凄いですね。


市原:無謀というか(笑)。



---TRIO'の名前についてですが、「'」がついて「トリオッ」と読ませているのが面白いですよね。



市原:「これぞトリオ」というような意味合いで名前を付けたかったんだけど、そうすると、「ザ・トリオ」とかになるじゃないですか?
でも、同じ名前が既にあったの(笑)。
誰でも同じようなこと考えるんだなあと思って。
で、結局は「'」を付けたんだけど、どう読むか分からなくて(笑)。
「トリオッ」って小さい「ッ」をつけて。半分冗談なんですけど。



---レコーディングはやはりスウェーデン在住の森さんのご都合に合わせて行っているのですか?
2014年に賛美歌をジャズにしたアルバム『Amzing Grace』を出されてとても素敵で・・・次作もそろそろかな?と思っております。



市原:実はもう資金がないんですよ(笑)。
6枚出して、売って回収出来ればいいんだけど、まだ回収全部できてない。
1枚分だけでも回収出来ればいいんですけど、それもなかなか難しい。
アルバム自体すごく贅沢に作っているので、売り上げ利益も少ないし、卸す時はかなり安く卸しちゃってるので・・・。
まあ普通の会社だったらクビですよね。こんな作り方してたら。



---自主制作のアルバムなのでしょうか。



市原:ええ。そういうことなんですけど。

まあ、そんなことでTRIO'は12年続いて。やりたいとは思ってるんだけど、アルバム出せないとね・・・。
そこがネックですね。





大野雄二&Lupintic Six




---ところで、このたび大野雄二&Lupintic Sixのメンバーとしても活動されるそうですね。
6月8日にはアルバム『YEAH!! YEAH!!』がリリースされるとか。
市原さんは、オリジナルの「ルパン三世のテーマ」でもドラムを叩いていらっしゃったんですか?



市原:あれは僕だと思いますよ。



---先日「ニッポンの編曲家」(DU BOOKS)という本を読んだんですけど、巻末に70〜80年代のアイドルなどのアルバムの参加ミュージシャン・クレジット表が載っていたんです。
それによると、市原さんは以下のアルバムに参加なさったそうですね。
山口百恵「This is my trial」(1980)「不死鳥伝説」(1980)
中森明菜「ファンタジー」(1983)河合奈保子「LOVE」(1980)
石野真子「わたしのしあわせMAKO・5」(1980)



市原:ああ、そうなの?
結局スタジオミュージシャンって、どの曲やったかほとんど知らないんですよね。
リズム録りだけやってるじゃないですか。歌手が来るわけじゃないし。
毎日いつもいつも仕事してて。だから、知ってる人は知ってるんだろうけど、僕はどれに参加したか知らないんですよ(爆笑)。



---そうだったんですね(笑)。



市原:時々流れてくる竹内まりやの・・・、あれはよく聴くんですけどね。



---もしかして「不思議なピーチパイ」ですか?



市原:なんだっけ?わかんない(笑)。



---当時の歌謡曲が流れてくると、これは自分が叩いたなぁーって分かるんですか?



市原:いや、わかんないです。はっきり言って。
他人のを自分の演奏だと思っていた時もあったし(笑)。



---そういえば、Facebookに載せていらした、資生堂のモデルをなさった時のお写真がとてもかっこ良くて!
あれはどういう経緯でモデルをなさったんですか?



市原:20代の頃に、ジャズのバンドやってて、よく覚えてないんですけど・・・確かピアノが島健だったと思うんですよ。
ギターが幾見雅博だったかな。
そのバンドごと、ヘアスタイルの新作発表会のステージの音楽をやるという仕事があって。
音楽やるなら、演奏しながらモデルにもなりなさいよ、って話になって、誰かの新作ヘアスタイルを僕がやったんですよ。



---あれは当時の普段の髪型というわけじゃないんですね。



市原:違う違う。大嘘ですよ(笑)。



---1970年代は、大野雄二さんの映画音楽にも参加されていらしたんですよね。



市原:最初がね、「犬上家の一族」。
次が「人間の証明」、次が「野生の証明」。
そのあとがルパンじゃないかな?
その間、いろんなこともやりました。



---大野雄二さんのYou & Explosion Bandにいらしたそうですね。



市原:実際レコーディングはバンドというより、その都度微妙にメンバーが違うの。
あの時期バンドとしてあったのは「You & Explosion Band」といって。
今回Lupintic Sixのベーシストも当時のベーシストですよ。長岡道夫。



---SHOGUNのミッチー長岡さんですね!
大野さんと組むのは久しぶりなのですか?



市原:久しぶりですよ。去年の秋からTVでルパンの新作アニメが始まったんですけど、その時のためのレコーディングを久しぶりにやったわけ。毎回同じルパンのテーマソングやるから。
それが大野さんとは久しぶりだったんです。



---Lupintic FiveからLupintic Sixにバンド名が変わり、メンバーも数名変わったとか。



市原:ベース、ドラムが変わって、あとオルガンが追加。
オルガンは宮川純っていって、僕の娘(市原ひかり/Tp)とよく一緒に演ってる。
完全に子供の年代だね(笑)。彼はすばらしい才能の持ち主ですね。



---Lupintic Six参加のお話はいつ頃来たんですか?



市原:話があったのは去年のレコーディングの後ですよね。
僕なんかでいいのかな?って感じなんだけど(笑)。
ああいうタッチの音楽はずっとやってないですからね。



---ルパンの音楽はとてもかっこいいですし、新しいアルバムやライブなど今後がとても楽しみです。
話は少し戻りますが、1974年に渡米されたのはどういうきっかけだったんですか?



市原:ウォン・ウィン・ツァンと森泰人と僕とでやってたんだけど、森泰人が急にいなくなっちゃったじゃないですか。
その後に、森理(もりおさむ)っていうエレキベースのプレイヤーが参加してバンド組んでたんです。
その時にアメリカに「BROWN RICE」っていうコーラスグループがあって、参加しないかと声がかかったんです。

惣領泰則、彼はステージ101のスターで、彼を中心に5人のコーラスバンドだったんですよね。
「BROWN RICE」は、当時アメリカで既に4〜5年活動を続けていて、キーボードはそのバンドの女の子が弾いてて、ベーシストは金田一昌吾っていって、帰国してからスタジオミュージシャンとして活躍した人です。

で、ドラムとキーボードはいわゆる専門職を探しているというので、僕らのところに話がきて。
こういう条件だけどアメリカ行くか?っていう話がマネージャーなどを通して来たので、僕とウォンと2人で行くことになったんですよ。
アメリカに行くか?って話は願ってもないことで、アメリカに行けるんなら条件なんてどうでもいいやと思って。しかも仕事が出来るっていう。それで行ったんですよね。



---アメリカでは具体的にどのようなお仕事をされたんですか?



市原:アメリカに行って一カ月もしないうちに、エンゲルベルト・フンパーディンクという世界的な歌手がいて、その前座のグル―プとして「BROWN RICE」が抜擢されるんですよ。
行って間もなくですよね。エンゲルベルト・フンパーディンクのツアーに一緒に行くことになって。

エンゲルベルト・フンパーディンクがどういうツアーをしてるかというと、二週間一か所にとどまるんですよ。で、二週間、日曜日以外は毎日ステージをやる。
それで日曜日はお休みなんで、その二週間の前後の日曜は移動するんですよ。
そこでまた二週間やって。
武道館より二回りぐらい小さいスケールのコンサート会場が結構あちこちにあって、そういうところによく行ったんですけど、ラスベガスでもやったりしましたね。

半年間活動しました。前座なんでね、演奏時間は15分しかないんですよ。
だから1日15分。あとは遊んだり、地元のミュージシャンと交流したりね。
半年間それやって、終わったら他の人の前座やったり、自分たちで二台の車で全米を回るラウンジ回りをしていました。
まあ今僕らがやってるような感じですよね。

そんなことをやって、ちょうど一年たった頃に、マネージメントトラブルがあって「BROWN RICE」は解散しちゃったんですよ。
で、日本に帰ってきて。一年間アメリカで活動していたやつが帰ってきたっていうから、別にアメリカで勉強したわけじゃないんだけど、それだけでもあの頃はなんとなくね、箔がつくみたいなところがあって。

「BROWN RICE」は僕がアメリカに行くちょうどその頃に、東芝から1枚シングル出してるんですよ。
(注:「Country Dreamer」)
作曲者はポール・マッカートニー。



---ポール・マッカートニーですか!?



市原:そう。ポール・マッカートニーに書いてもらった曲があって。
まあヒットしませんでしたけど・・・。



---「BROWN RICE」の音源は残っていないんですか?



市原:ラスベガスの住処でスタジオを手作りで造って録音し、東京で弦楽器などのダビングをした最後のLPがあります。あれは恐らくCDで復刻版で出ていたような気がします。

で、アメリカから帰ってきて、それぞれがそれぞれのことをやり始めたんですよね。



---市原さんは、帰国されてからどんな音楽活動を始めたのですか?



市原:渡米の前になんとなくスタジオでのレコーディングが仲間内の中で少しずつ増えていたんですが、帰ってきたら、即、そういう仕事が沢山あって。
そこで出会ったのが、コルゲンさん。(注:鈴木宏昌/p)
コルゲン・バンドに入ったんだけど、そこで何となく居場所がなくなって・・、やめてしまったんです。
僕がやめたあとに出来たのが、「ザ・プレイヤーズ」ですね。



---ザ・プレイヤーズの前のバンドにいらしたんですか!



市原:そう、ザ・プレイヤーズの前身です。



---歌謡曲、映画音楽、いろいろご参加なさったと思うんですけど、だんだんジャズの演奏のほうが増えていったのでしょうか?



市原:いや、全然そうじゃないですね。
歌謡曲というよりちょっとフュージョンがかってるというか。
当時忙しかったから、ちょっと間違うと演歌の仕事が入ってきちゃったり。
僕は全然演歌できなかったですけどね。
僕はニューミュージック、そっち系の仕事が多かったかな。

だけど、だんだん仕事が減ってきて。
専門的な話になるんですけど、80年代ぐらいからクリックを使って音楽をやるようになるんですよ。
それ以前というのはだんだん速くなっちゃったりとか重たくなったりとか。
そういう音楽をみんなやってたんだけど、クリックを使うようになってからそういうことがなくなっちゃったわけ。

でも僕はそのクリックを最後まで受け入れられなくて。
要するにスタジオのみんなってのはクリックを何の疑いもなく受け入れて、きちっとやるようになって。
僕は結局そこからドロップアウトですよね。



---クリックを受け入れられなかったという方も当時多かったんですか?



市原:それはないですね。みんな素直というか(笑)。あんまりいないですね。
だけど、素直じゃない人はどんどんおっこちていくんですよ。
スタジオからいなくなっていきますからね。
僕もその一人だったっていうか・・・。
そんなこんなであったことと、ちょうど個人的な話になるけど、キリスト教の信仰を持つようになったのはコルゲン・バンドを辞めたあたりですよ。
一番こうガーンとやられた時ですよね・・・。
精神的にまいりにまいってた時。



---コルゲン・バンドを辞めたことは、かなりの痛手だったんでしょうか・・・。



市原:そうですね。
その中から、キリスト教関係の音楽をやるようにもなったわけです。
小坂忠、彼もいま牧師ですよね。それに岩渕まことと組んで活動してて。
そのバンドの一員として10年以上やりましたね。
そういう中で、うまいことスイッチしたなと思うんだけど、松本峯明(p)ってスタジオミュージシャンで、あまりジャズのミュージシャンとして知られてないんだけど、ジャズのアルバムを作るというんで僕を誘ってくれたんですよ。
元々ジャズテイストだったから、その時久々にジャズのピアノトリオをやって、ちょっとなんか変わってきましたよね。

その後に木住野佳子(p)さんのグループでやることになったんですよね。
そのころから割とジャズの世界にだんだん入っていって。
その時に彼女のレコーディングに参加してリリースされた「You Are So Beautiful」はかなりヒットしたようですね。

その頃からいわゆるジャズファンの方との繋がりも出来上がってきてて。
そうやってジャズの世界と、25年前に東京音楽大学で教えることも始めていていわゆるスタジオミュージシャンからは遠ざかった存在ですよね。
ところが去年から大野さんが声かけてくれて、急にまた元の世界に戻ってきたような感じ。
戻ったといってもこれから始まるんですけどね。



---それについては、現在どんなお気持ちですか?



市原:単純に嬉しいですね。
誰にでも受け入れられる大野さんの音楽性の中で、やってよ!と声かけられるのはね。
僕の感性ともなんか合うっていうか。
だから一生懸命やっていきたいなあと思ってます。



---ここからは、市原さんが音楽を始めたきっかけについてお聞かせ下さい。
子供の頃は、いつ頃からどんな音楽を始めたのですか?



市原:小学校低学年ですよね。いわゆるクラシックのピアノを習い始めて、ソナチネぐらいまでやりましたね。
で、中学でクラシックギター習い始めて。ガッドギターね。
高校になったらエレキギターをやりたくなって、エレキバンドを結成したんですよ。
その頃ってエレキバンドやってる人って、不良のレッテルを貼られる、そういう時代なので、ちょっといろいろ闘いがあったんですけど。



---親御さんとの闘いがあったのでしょうか。



市原:いや、学校の先生と(笑)。



---先生とですか!



市原:闘いっていうかね、そういう不良のイメージを払拭しなければならないので。
それでも、変な闘いにはならなくて、学園祭でエレキバンドのステージもやらせてもらったんですよ。
その時に、ドラムやりたいなあーと思いながらドラム見てたんです。

で、受験校だったので大学受験して、失敗してね。
一番入りたかったのは東北大学だったんですよ。(仙台での)模擬試験にも毎年来てね。東北大学のための準備してたんですよ。



---受かっていれば仙台に住まわれたんですね。



市原:そうそう。金属工学やりたくてね。
だけど失敗しちゃって、金物を別の形で叩く人になって(笑)。



---早稲田大学に入学されて、スイング&ジャズ研究会と、モダンジャズ研究会の2つに入られたそうですね。



市原:早稲田では理工学部金属工学科に入ったんだけど、理工学部というのは本部と離れていて、クラブ活動も別の独自のクラブがあったんですね。
理工学部ではスイング&ジャズ研究会っていうのがあったの。そこに一年生の頃に入って。

その後、本部に、タモリさん、増尾好秋さん、チンさん(鈴木良雄)たちを輩出しているモダンジャズ研究会があることを知って。
理工学部のスイング&ジャズ研究会もやりながら、二年生からは本部のモダンジャズ研究会にも入って。両方二股かけながらね。



---その頃にジョージ大塚さんに師事なさったんですか?



市原:僕が結局ドラム始めたのは大学に入ってからですから、浪人の時期にやりたいなあとは思ってたけど全く何も知らなくて、ちょっと習わなくてはいけないなと思って。
よく調べもしないで、有名な人誰だ!って言って、その頃勢いがあったからジョージ大塚ドラム教室に、大学一年になったと同時に通うようになって。
でも、ジョージさんは直接教えてくれないんですよ。全くのアマチュアなので・・・。

初級・中級・上級・プロコースとあるんですが、ジョージさんから直接教われるのはプロコースの人だけなんですよ。
たまには顔出して教えてはもらえるけど。

その時に最初に僕の先生だったのは、小津昌彦さん。もう亡くなっちゃったんですけどね。
小津さんか関根英雄さん、この2人がジョージさんの弟子だったんですよね。
僕は4カ月ぐらいドラムやってプロになる!って決めちゃったんですよ。たった4カ月で(笑)。
それで、初級・中級・上級までを1年で終わらせたんですよ。



---すごいですね!たった1年で。



市原:じゃあ翌年からはジョージさんに教われるっていうことで、始まったか始まりかけたか。
その時に、このコースはいわゆるプロコースじゃなくて、"ジョージ大塚さんの弟子コース"だなと。
プロコースってのは本当にプロとして必要な最低限のことをきちっとカリキュラムにのって教われるのかな?と思って。でもだいぶイメージが違ってて。
弟子ですよね。ジョージさんのようになる感じ。
それはどうも肌に合わなくて(笑)・・・辞めちゃったんですよ。
そのあとはずっと一人でやってきましたね。

大学一年の冬、正月に練習を休んで再開した時にあんまりやりすぎて腱鞘炎起こしちゃったんですよ。
手首が痛くて痛くて、物もつかめなくて。
それまではもう毎日毎日鬼のように練習してたんだけど、何も出来なくなって。
それ以来、練習らしい練習はあまりしてないんですよね。今に至るまで(笑)。



---実践で磨いていらしたということでしょうか。



市原:実践っていうか、テクニックを披露するスタードラマーにはもうなれない、完全に。
そこを補うような意味もあるんですけど、テクニックじゃなくて、音と音の繋がりの中でどういう位置に自分が立てばどういう演奏になるのか?
人との関係でも上から目線になればこういう言葉が出る、下からならこういう言葉が出るってあるじゃない?
それと同じようにドラマーとして、いるべき場所はどこなのかな?そっちをずっと専ら考えてやってきたわけですかね。



---市原さんはドラムという楽器の魅力についてはどうお感じになっていらっしゃいますか?



市原:ドラムは面白いですよ みんなドラムってやりたがるんですよ。
なんでそんなに面白いかって、音楽をぶち壊すことも簡単にできれば立ち上げることも出来る。
小難しい和声的なことってのは、「出来なくても、出来る」を感覚的に分かっているだけでドラムは出来るんですね。
自分でアドリブ出来ないけど、そういう立場で出来るっていうのは、面白いですよね。

ドラマーにも右から左までいて、スタープレイヤーでドラムを魅せるプレイヤーもいるし、極端にいうと一番左は全体を生かすドラム。
本当はこの右と左が一つになっているのがあるべき姿なのかも知れないですね。



---東京音楽大学でも長年教えていらっしゃるそうですが、音楽教育についてのお考えを教えていただけますか?



市原:20年以上教えてますけど、どの子が大成するかは分からないですね。
生徒であるその時点で、あまりこいつはこうだと決めつけるのは危ないなと。
決めつけてつぶしちゃうような先生もいますからね。



---最近の若い生徒さんは熱心ですか?



市原:熱心ですよ。それなりに熱心で、ドラマーになりたいと思ってますからいろんな悩みも持ってるし、その悩みのポイントがどこかな?っていうのをつかんで掘り起こしてやるのが仕事ですよね。
あとはもう単純に、ドラムはこうやるんだということだけを理屈じゃなくて教える。それも一つの手なんですよ。
だから自分は一種僕の立ち位置にいて、そのことをずっと考えてきたけど、そういう話はあまりしませんけどね、生徒にはね。
それは教わるものじゃないし、自分で見つけ出すものでしかないなあと思うので。
教える時は、単純にやらせてアドバイスするだけ。



---お嬢さんの市原ひかりさんにアドバイスすることもあるのですか?



市原:やっぱり親子っていうのは一番アドバイスしにくいですよ。
ひかりには、小さい頃には一切教えなかったです。ピアノも習わせなかった。
親は好きなことを楽しそうにやってたわけですよ。しかも何も教えてもらえないし(笑)。
子供は当然知りたいと思いますよ。
だけどピアノを習わせると、嫌いになる確率がかなり高いんですよ。
教えるのは難しいことで、本当に生徒を生かす先生ってなかなかいないですよね。
いい先生を探すというか、そういう先生と出会うというのは、かなり確率低いと思うので習わせなかったんです。

ある時、ひかりが「コードってどうやって弾くの?」って言うから簡単に教えたら、翌日から歌の譜面をコード弾きながら自分で歌ってるっていう(笑)。
そんなのが、ひかりの音楽の始まりですよね。
自分でどんどん吸い取りたいように吸い取ったっていう。



---今ではひかりさんは、若手ジャズミュージシャンの中でもご活躍著しいですよね。



市原:ある種、くせのあるトランペットですよね(笑)。ジャンルというか、傾向というか。
でもみんなに慕われているというか、僕らの年代の先輩たちもすごく可愛がってくれてるのでラッキーですよね。



---市原さんの今後の夢や展望は?



市原:僕の音楽は信仰生活とは切り離せないんです。
そういった意味でもクリスチャンというのは、一般の人が聞くと訳わからないかもしれないけど、神と交流を始めた人達である、神のもとに立ち返った人である、親子関係をもう一度結んだ、本当の親子のように、離れた子供が神のもとに帰ってきた、そういう神との関係・・。
そういう立場なので、どこで何をするにしてもその立場は変わらないと思ってます。

どこにいて何をしても、その基礎の上に立ってるから。
そういう立場で全てのことをしたいというのがこれからのビジョン、ビジョンっていうか基本的な姿勢です。
たとえば大野さんのグループでも喜んでやるけど、大野さんのグループが出来なくなったとしてもTRIO'が出来なくなったとしてもその基礎は全然変わらない。
たとえば怪我して手がなくなったらドラムは出来ないですから。
だけど、基礎は変わらない。
音楽としてのビジョンというより、生き方のビジョンですよね。



---本日は貴重なお話を沢山伺えて嬉しい時間でした。どうもありがとうございました。







プロフィール:

市原康・・ドラムス
1950年3月生まれ。1969年早稲田大学在学中、ジョージ大塚氏に師事。同大学スイング&ジャズ研究会、モダンジャズ研究会を経てプロとしての活動に入る。1975年渡米。約一年間、日本人グルーブ「BROWN RICE」と共に活動後、帰国。ジャズドラマー、スタジオミュージシャンとして多数のレコーディング、ライブ演奏、コンサート、TV出演などの活動を続け、惣領泰則、大野雄二、鈴木宏昌、前田憲男、菊池ひみこ、久石譲、新日フィル、阿川泰子、松山千春、ピチカートファイブ、ウォン・ウィン・ツァンなど数多の音楽家達から信頼され、活動を続け現在に至っている。90年代に入って、自己の音楽活動にも注力。2004年1月にはジャズピアノトリオ「TRIO’(トリオッ/pf,福田重男、b,森泰人)」を結成。同時にレーベル「アイプロデュース」を立ち上げ、現在までに6枚のアルバムをリリース。TRIO’の活動の他に今年6月からは大野雄二”Yuji Ohno & Lupintic Six”にも参加し、演奏活動を精力的に続けている。東京音楽大学の作曲科の客員教授として後進の育成にも尽力している。また、黒鯛プロデュースにて芝居をする役者としての顔もある。



ドラマー市原康のホームページ
http://i-produce.net/


♪最新ライブ情報
ライブの最新情報につきましては、市原さんのサイト大野雄二&Lupintic Sixのサイトにてご確認頂いてからのご予約をお願い致します。


2016/6/9(木) 調布・さくらんぼ 塚山エリコオルガン4/feat.直居隆雄gt
2016/6/10(金) 菊川・な〜じゅ 金城寛文5
2016/6/16(木) 浜松町・サンミケーレ
2016/6/19(日) 蕨アワーデライト 古野光昭4
2016/6/21(火) 歌声ペトラ。毎月の新しい賛美歌を歌う会
2016/6/25(土) 香川県ユープラザ宇多津 大野雄二、ピアノトリオ編成
2016/6/26(日) 豊橋 突撃おたま苦楽部、CDリリース記念ライブ
2016/7/7(木) 品川ステラボール JCAA/日本作編曲家協会主催/タイムファイブ+まきみちる
2016/7/12(火) 歌声ペトラ
2016/7/15(金) 沼袋オルガンジャズ倶楽部 直居隆雄トリオ
2016/7/18(月,祝) 南大沢文化会館 市原よしみのリトルミュージシャンコンサート
2016/7/28(木)〜31(日)黒鯛プロデュース第14回公演。「テラバン」築地本願寺内プティストホール。
http://prestage.info/2016/05/14/6362



大野雄二&Lupintic Six
2016/6/12(日)東京・タワーホール船堀
2016/6/17(金)まつもと市民芸術館 主ホール
2016/6/18(土)サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター)
2016/7/9(土)福岡・黒崎ひびしんホール
2016/8/2(火)大阪・Billboard Live OSAKA
2016/8/3(水)東京・Billboard Live TOKYO
2016/8/21(日)京都・舞鶴市総合文化会館
2016/8/24(水)北海道・帯広市民文化ホール
2016/8/25(木)北海道・札幌市民ホール
2016/8/27(土)北海道・函館市民会館
2016/9/19(月祝)滋賀・栗東芸術文化会館さきら
2016/10/2(日)兵庫・伊丹アイフォニックホール
2016/10/7(金)山口・宇部市渡辺翁記念会館
2016/10/8(土)広島・はつかいち文化ホール
2016/10/23(日)兵庫・やしろ国際学習塾
2016/12/26(月)大阪・新歌舞伎座



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